ば、それが仕官の種になりますし、失敗に終っても元々です。だから、この際、思い切って上杉邸へお引き移りになったらいかがですか」
「いやなことだ!」上野介は、首を振った。
「わしは、ちっとも悪いことをしたと思っていない。わしと内匠頭の喧嘩は、七分まで向うがわるいと思っている。それを、こんな世評で白金へ引き移ったら、吉良はやっぱり後暗いことがあるといわれるだろう。わしは、それがしゃくだ」
「御隠居も、なかなか片意地でございますな」
「うむ。だが、わしはつまらない喧嘩を売られたとしか思っていない。わしは、喧嘩を売った内匠の家来たちに恨まれる筋はないと思っている」
「理屈は、そうかも知れませぬが」
「一体、浅野浪人の統領は誰だ!」
「大石と申す国家老でございます」
「大石内蔵助か。あの男なら、もっと事理《わけ》が分かっているはずだ。わしを討つよりか、家再興の運動でもすると思うが。わしを討ってみい、浅野家再興の見込みは、永久に断たれるのだが」
「さようでございましょうが、禄を失いました者どもは、それほどの事理を考える暇がございますまい。公儀という大きい相手よりも、手近な御隠居を……」
「分かった! 分かった! しかし、内匠頭をいじめたようにとかく噂されている上に、今度はその敵討を恐れて逃げ回っているといわれて、わしの面目にかかわる。来たら来たときのことだが、千坂、結局噂だけではないか」
「なれば結構でございますが。しかし、万一の御用意を」
「だが、引き移るのはいやだよ」
「それならば、、お付人として、手の利いたものを詰めさせる儀は」
「うむ。それもいいが、なるべく世間の噂にならぬように」
「はは」
 千坂は、この頑固な爺と気短な内匠頭とでは、喧嘩になるのはもっともだと思った。しかし、この頑固さを、世間でいうように、強欲とか吝嗇《りんしょく》とかに片づけてしまうのは当らないと思った。

          九

 どどっと物の倒れる、めりめりと戸の破れる、すさまじい響きが遠くの方でして、人の叫びがきこえてきた。上野介は、耳をすました。
「火事だ」という声がした。
(この押しつまった年の暮に不念な。邸内かな、それとも隣屋敷か……)と、思いながら上野は、
「火事か」と、隣にいるはずの近侍に声をかけた。そして、半身を起すと、畳を踏む音、家来の叫びが、きこえた。
「火事はどこだ。誰かいな
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