の女人との恋愛問題などがある程度以上のものであるはずなく、ただああした女人も求むれば求め得られたという程度のものだろう。あの「女人云々」について、僕宛の遺書には、その消息があるなどと、奇怪な妄説をなすものがあったが、そういう妄説を信ずる者には、いつでも自分宛の遺書を一見させてもいいと思っている。僕宛の遺書は僕に対する死別の挨拶のほか他の文句は少しもない。
芥川の「手記」をよめば、芥川の心境は澄み渡ってい、落ち付き返ってい、決して生々しい原因で死んだのでないことは、頭のある人間には一読して分るだろう。芥川としては、自殺ということで、世人を駭《おどろ》かすことさえも避けたかったのだ。病死を装いたかったのであろう。
芥川と自分とは、十二、三年の交情である。一高時代に、芥川は恒藤《つねとう》君ともっとも親しかった。一高時代は、一組ずつの親友を作るものだが、芥川の相手は恒藤君であった。この二人の秀才は、超然としていた。と、いって我々は我々で久米、佐野、松岡などといっしょに野党として、暴れ廻っていたが、僕は芥川とは交際しなかった。
僕が芥川と交際し始めたのは、一高を出た以後である。一高を出て、京都に行って夏休みに上京した頃、はじめて芥川と親しくしたと思っている。その後、自分が時事新報にいた頃から、親しくなり、大正八年芥川の紹介で大阪毎日の客員となった頃から、いよいよ親しく往来したと思う。最近一、二年は、自分がいよいよ俗事にたずさわり、多忙なので月に一度くらいしか会わなかった。最近もっとも親しく往来した人は小穴《おあな》隆一君であろう。小穴君は、芥川に師事し日として会わざる日なきありさまであった。
芥川と、僕とは、趣味や性質も正反対で、また僕は芥川の趣味などに義理にも共鳴したような顔もせず、自分のやることで芥川の気に入らぬこともたくさんあっただろうが、しかし十年間一度も感情の阻隔を来したことはなかった。自分は何かに憤慨すると、すぐ速達を飛ばすので、一時「菊池の速達」として、知友間に知られたが、芥川だけには一度もこの速達を出したことがない。
僕と芥川は、どちらかといえば僕の方が芥川に迷惑をかけた方が多いかと思う。しかし、それにもかかわらず、僕の言う無理はたいていきいてくれた。最近の「小学生全集」の共同編集なども、自殺を決心していた彼としては嫌であったに違いないが、自分の
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