申し出を拒けて僕を不快にさせまいとする最後の交誼として、承諾してくれたのであっただろうと思う。彼が、自分宛の遺書の日付は、四月十六日であるから、もうその頃は、いよいよ決心も熟していたわけである。
今から考えると、自分は芥川に何も尽すことが出来なかったが、彼は蔭ながら、自分の生活ぶりについて、いろいろ心配していてくれたらしい。去年の十月頃鵠沼にいた頃、僕のある事件を心配して、注意をしてくれ、もし自分の力で出来ることがあったら、上京するから電報をくれというような手紙をくれた。ところが、自分はその事件などは、少しも心配していなかったので、心配してくれなくってもいい旨返事したが、芥川が神経衰弱に悩みながら、僕のことまで考えてくれたことを嬉しく思った。彼は、近年僕が、ちっとも創作しないのをかなり心配したと見え、いつかも、(「文藝春秋」を盛んにするためにも、君が作家としていいものを書いていくことが必要じゃないか)
と言ってくれた。それに対して、
(いや、僕はそうは思わない。作家としての僕と、編集者としての僕は、また別だ。編集者として、僕はまだ全力を出していないから、その方で全力を出せば、雑誌はもっと発展すると思う)
と、言って僕は芥川の説に承服しなかったが、芥川の真意は僕が創作をちっとも発表しないのを心配してくれたのだろうと思った。
僕のもっとも、遺憾に思うことは、芥川の死ぬ前に、一カ月以上彼と会っていないことである。この前も「文藝春秋座談会」の席上で二度会ったが、二度とも他に人がありしみじみした話はしなかった。その上、「小学生全集」があんなにゴタゴタを起し、芥川にはまったく気の毒で芥川と直面することが、少しきまり悪かったので、座談会が了った後も、僕は出席者を同車して送る必要もあり、芥川と残って話す機会を作ろうとしなかった。ただ万世橋の瓢亭で、座談会があったとき、私は自動車に乗ろうとしたとき、彼はチラリと僕の方を見たが、その眼には異様な光があった。ああ、芥川は僕と話したいのだなと思ったが、もう車がうごき出していたので、そのままになってしまった。芥川は、そんなときあらわに希望を言う男ではないのだが、その時の眼付きは僕ともっと残って話したい渇望があったように、思われる。僕はその眼付きが気になったが、前にも言った通り芥川に顔を会わすのが、きまり悪いので、その当時用事はたいてい人
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