いっぱいであった。人々はみんなボートルレに驚き、どこででもボートルレを褒める言葉が交《かわ》された。
 しかもまた一方判事の方では、ボートルレが話したことより一歩も先へ進まなかった。レイモンド嬢がボートルレと見間違えた男のことも、四枚の名画のその後の行方も、同じく暗《やみ》に包まれたままであった。僧院の中の捜索も判事は自分自身から毎日出掛けて探したが、どうしても分らなかった。
 ある新聞記者がジャンソン中学へ行ってボートルレに逢って、なぜ探偵をつづけないのかと尋ねた。ボートルレは今ちょうど試験なのであった。彼は試験に落第するのは厭だといった。
「しかし強盗を捕まえるのはたいへんいいではありませんか。」と新聞記者はいった。
「それでは僕は六月六日の土曜日に行きましょう。」とボートルレは答えた。
 六月六日!この日は新聞に一斉に書き出された。「ボートルレは六月六日ドイエップ行の急行に乗る。そしてアルセーヌ・ルパンは捕縛されるであろう。」と。
 その日ボートルレは一人で汽車に乗った。毎日毎夜の勉強にくたびれて彼は眠ってしまった。ルーアンの見える頃にようやく目が覚めたが汽車の中はやはり彼一人であった。ふと前の腰掛覆《こしかけおおい》の上に何やら書いた一枚の紙片がピンで留めてあるのに気がついた。その書いてある字を読んでみると、
「汝は汝の学業に勉めよ。然らずんば汝の上に災《わざわい》あらん。」
「ははあなるほど」とボートルレは両手を擦りながら叫んだ。[#「。」は底本では欠落]「敵の形勢は悪くなってきたなあ、こんな脅迫なんか馬鹿らしい。」
 汽車はルーアンに着いた。ボートルレはその停車場で新聞を見て、驚きの余りさっと顔色を変えた。
「昨夜悪漢数名、ジェーブル伯邸にてシュザンヌ嬢を縛り猿轡を嵌めておいて、レイモンド嬢を誘拐したり。邸より五百|米突《メートル》の間は血跟《けっこん》が点々と落ち、なお附近に血染《ちぞめ》の襟巻が捨ててあった。これより見て、不幸なレイモンド嬢は殺害せられたりと信ぜらる。」
 ボートルレは身体を二つに折り、頭を両手で抱えて思いに沈んだ。
 彼はドイエップから馬車を雇った。ジェーブル伯爵邸の前で判事に逢った。判事は何もくわしいことは知らないといった。ただ皺苦茶《しわくちゃ》になった破れた紙片《かみきれ》をボートルレに渡した。それは血染の襟巻が捨ててあったと
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