び彼らの心に復活した。やがて、寄進された十人に近い石工の槌の音が、再び市九郎のそれに和した。
また一年経った。一年の月日が経つうちに、里人たちは、いつかしら目先の遠い出費を、悔い始めていた。
寄進の人夫は、いつの間にか、一人減り二人減って、おしまいには、市九郎の槌の音のみが、洞窟の闇を、打ち震わしていた。が、そばに人がいても、いなくても、市九郎の槌の力は変らなかった。彼は、ただ機械のごとく、渾身の力を入れて槌を挙げ、渾身の力をもってこれを振り降ろした。彼は、自分の一身をさえ忘れていた。主を殺したことも、剽賊を働いたことも、人を殺したことも、すべては彼の記憶のほかに薄れてしまっていた。
一年経ち、二年経った。一念の動くところ、彼の瘠せた腕は、鉄のごとく屈しなかった。ちょうど、十八年目の終りであった。彼は、いつの間にか、岩壁の二分の一を穿っていた。
里人は、この恐ろしき奇跡を見ると、もはや市九郎の仕事を、少しも疑わなかった。彼らは、前二回の懈怠《けたい》を心から恥じ、七郷の人々合力の誠を尽くし、こぞって市九郎を援け始めた。その年、中津藩の郡奉行が巡視して、市九郎に対して、奇特の言葉を下した。近郷近在から、三十人に近い石工があつめられた。工事は、枯葉を焼く火のように進んだ。
人々は、衰残の姿いたいたしい市九郎に、
「もはや、そなたは石工共の統領《たばね》をなさりませ。自ら槌を振うには及びませぬ」と、勧めたが、市九郎は頑として応じなかった。彼は、たおるれば槌を握ったままと、思っているらしかった。彼は、三十の石工がそばに働くのも知らぬように、寝食を忘れ、懸命の力を尽くすこと、少しも前と変らなかった。
が、人々が市九郎に休息を勧めたのも、無理ではなかった。二十年にも近い間、日の光も射さぬ岩壁の奥深く、座り続けたためであろう。彼の両脚は長い端座に傷み、いつの間にか屈伸の自在を欠いていた。彼は、わずかの歩行にも杖に縋《すが》らねばならなかった。
その上、長い間、闇に座して、日光を見なかったためでもあろう。また不断に、彼の身辺に飛び散る砕けた石の砕片《かけら》が、その目を傷つけたためでもあろう。彼の両目は、朦朧として光を失い、もののあいろもわきまえかねるようになっていた。
さすがに、不退転の市九郎も、身に迫る老衰を痛む心はあった。身命に対する執着はなかったけれど、中道にしてたおれることを、何よりも無念と思ったからであった。
「もう二年の辛抱じゃ」と、彼は心のうちに叫んで、身の老衰を忘れようと、懸命に槌を振うのであった。
冒《おか》しがたき大自然の威厳を示して、市九郎の前に立ち塞がっていた岩壁は、いつの間にか衰残の乞食僧一人の腕に貫かれて、その中腹を穿つ洞窟は、命ある者のごとく、一路その核心を貫かんとしているのであった。
四
市九郎の健康は、過度の疲労によって、痛ましく傷つけられていたが、彼にとって、それよりももっと恐ろしい敵が、彼の生命を狙っているのであった。
市九郎のために非業の横死を遂げた中川三郎兵衛は、家臣のために殺害されたため、家事不取締とあって、家は取り潰され、その時三歳であった一子実之助は、縁者のために養い育てられることになった。
実之助は、十三になった時、初めて自分の父が非業の死を遂げたことを聞いた。ことに、相手が対等の士人でなくして、自分の家に養われた奴僕《ぬぼく》であることを知ると、少年の心は、無念の憤《いきどお》りに燃えた。彼は即座に復讐の一義を、肝深く銘じた。彼は、馳せて柳生《やぎゅう》の道場に入った。十九の年に、免許皆伝を許されると、彼はただちに報復の旅に上ったのである。もし、首尾よく本懐を達して帰れば、一家再興の肝煎《きもい》りもしようという、親類一同の激励の言葉に送られながら。
実之助は、馴れぬ旅路に、多くの艱難を苦しみながら、諸国を遍歴して、ひたすら敵《かたき》市九郎の所在を求めた。市九郎をただ一度さえ見たこともない実之助にとっては、それは雲をつかむがごときおぼつかなき捜索であった。五|畿内《きない》、東海、東山、山陰、山陽、北陸、南海と、彼は漂泊《さすらい》の旅路に年を送り年を迎え、二十七の年まで空虚な遍歴の旅を続けた。敵に対する怨みも憤りも、旅路の艱難に消磨せんとすることたびたびであった。が、非業に殪《たお》れた父の無念を思い、中川家再興の重任を考えると、奮然と志を奮い起すのであった。
江戸を立ってからちょうど九年目の春を、彼は福岡の城下に迎えた。本土を空しく尋ね歩いた後に、辺陲《へんすい》の九州をも探ってみる気になったのである。
福岡の城下から中津の城下に移った彼は、二月に入った一日、宇佐八幡宮に賽《さい》して、本懐の一日も早く達せられんことを祈念した。実之助は、参拝を終えてから境内の茶店に憩うた。その時に、ふと彼はそばの百姓|体《てい》の男が、居合せた参詣客に、
「その御出家は、元は江戸から来たお人じゃげな。若い時に人を殺したのを懺悔して、諸人済度の大願を起したそうじゃが、今いうた樋田の刳貫《こかん》は、この御出家一人の力でできたものじゃ」と語るのを耳にした。
この話を聞いた実之助は、九年この方いまだ感じなかったような興味を覚えた。彼はやや急《せ》き込みながら、「率爾《そつじ》ながら、少々ものを尋ねるが、その出家と申すは、年の頃はどれぐらいじゃ」と、きいた。その男は、自分の談話が武士の注意をひいたことを、光栄であると思ったらしく、
「さようでございますな。私はその御出家を拝んだことはございませぬが、人の噂では、もう六十に近いと申します」
「丈《たけ》は高いか、低いか」と、実之助はたたみかけてきいた。
「それもしかとは、分かりませぬ。何様、洞窟の奥深くいられるゆえ、しかとは分かりませぬ」
「その者の俗名は、なんと申したか存ぜぬか」
「それも、とんと分かりませんが、お生れは越後の柏崎で、若い時に江戸へ出られたそうでござります」と、百姓は答えた。
ここまできいた実之助は、躍り上って欣《よろこ》んだ。彼が、江戸を立つ時に、親類の一人は、敵《かたき》は越後柏崎の生れゆえ、故郷へ立ち回るかも計りがたい、越後は一入《ひとしお》心を入れて探索せよという、注意を受けていたのであった。
実之助は、これぞ正しく宇佐八幡宮の神託なりと勇み立った。彼はその老僧の名と、山国谷に向う道をきくと、もはや八つ刻を過ぎていたにもかかわらず、必死の力を双脚に籠めて、敵の所在《ありか》へと急いだ。その日の初更近く、樋田村に着いた実之助は、ただちに洞窟へ立ち向おうと思ったが、焦《あせ》ってはならぬと思い返して、その夜は樋田駅の宿に焦慮の一夜を明かすと、翌日は早く起き出でて、軽装して樋田の刳貫へと向った。
刳貫の入口に着いた時、彼はそこに、石の砕片《かけら》を運び出している石工に尋ねた。
「この洞窟の中に、了海といわるる御出家がおわすそうじゃが、それに相違ないか」
「おわさないでなんとしょう。了海様は、この洞《ほこら》の主も同様な方じゃ。はははは」と、石工は心なげに笑った。
実之助は、本懐を達すること、はや眼前にありと、欣び勇んだ。が、彼はあわててはならぬと思った。
「して、出入り口はここ一ヶ所か」と、きいた。敵に逃げられてはならぬと思ったからである。
「それは知れたことじゃ。向うへ口を開けるために、了海様は塗炭の苦しみをなさっているのじゃ」と、石工が答えた。
実之助は、多年の怨敵が、嚢中の鼠のごとく、目前に置かれてあるのを欣んだ。たとい、その下に使わるる石工が幾人いようとも、切り殺すに何の造作もあるべきと、勇み立った。
「其方《そち》に少し頼みがある。了海どのに御意得たいため、遥々と尋ねて参った者じゃと、伝えてくれ」と、いった。石工が、洞窟の中へはいった後で、実之助は一刀の目くぎを湿した。彼は、心のうちで、生来初めてめぐりあう敵の容貌を想像した。洞門の開鑿を統領しているといえば、五十は過ぎているとはいえ、筋骨たくましき男であろう。ことに若年《じゃくねん》の頃には、兵法に疎《うと》からざりしというのであるから、ゆめ油断はならぬと思っていた。
が、しばらくして実之助の面前へと、洞門から出てきた一人の乞食僧があった。それは、出てくるというよりも、蟇《がま》のごとく這い出てきたという方が、適当であった。それは、人間というよりも、むしろ、人間の残骸というべきであった。肉ことごとく落ちて骨あらわれ、脚の関節以下はところどころただれて、長く正視するに堪えなかった。破れた法衣によって、僧形とは知れるものの、頭髪は長く伸びて皺だらけの額をおおっていた。老僧は、灰色をなした目をしばたたきながら、実之助を見上げて、
「老眼衰えはてまして、いずれの方ともわきまえかねまする」と、いった。
実之助の、極度にまで、張り詰めてきた心は、この老僧を一目見た刹那たじたじとなってしまっていた。彼は、心の底から憎悪を感じ得るような悪僧を欲していた。しかるに彼の前には、人間とも死骸ともつかぬ、半死の老僧が蹲っているのである。実之助は、失望し始めた自分の心を励まして、
「そのもとが、了海といわるるか」と、意気込んできいた。
「いかにも、さようでござります。してそのもとは」と、老僧は訝《いぶか》しげに実之助を見上げた。
「了海とやら、いかに僧形に身をやつすとも、よも忘れはいたすまい。汝、市九郎と呼ばれし若年の砌《みぎり》、主人中川三郎兵衛を打って立ち退いた覚えがあろう。某《それがし》は、三郎兵衛の一子実之助と申すものじゃ。もはや、逃れぬところと覚悟せよ」
と、実之助の言葉は、あくまで落着いていたが、そこに一歩も、許すまじき厳正さがあった。
が、市九郎は実之助の言葉をきいて、少しもおどろかなかった。
「いかさま、中川様の御子息、実之助様か。いやお父上を打って立ち退いた者、この了海に相違ござりませぬ」と、彼は自分を敵と狙う者に会ったというよりも、旧主の遺児《わすれご》に会った親しさをもって答えたが、実之助は、市九郎の声音《こわね》に欺かれてはならぬと思った。
「主を打って立ち退いた非道の汝を討つために、十年に近い年月を艱難のうちに過したわ。ここで会うからは、もはや逃れぬところと尋常に勝負せよ」と、いった。
市九郎は、少しも悪怯《わるび》れなかった。もはや期年のうちに成就すべき大願を見果てずして死ぬことが、やや悲しまれたが、それもおのれが悪業の報《むく》いであると思うと、彼は死すべき心を定めた。
「実之助様、いざお切りなされい。おきき及びもなされたろうが、これは了海めが、罪亡しに掘り穿とうと存じた洞門でござるが、十九年の歳月を費やして、九分までは竣工いたした。了海、身を果つとも、もはや年を重ねずして成り申そう。御身の手にかかり、この洞門の入口に血を流して人柱となり申さば、はや思い残すこともござりませぬ」と、いいながら、彼は見えぬ目をしばたたいたのである。
実之助は、この半死の老僧に接していると、親の敵《かたき》に対して懐いていた憎しみが、いつの間にか、消え失せているのを覚えた。敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。しかも、自分が一度名乗りかけると、唯々《いい》として命を捨てようとしているのである。かかる半死の老僧の命を取ることが、なんの復讐であるかと、実之助は考えたのである。が、しかしこの敵を打たざる限りは、多年の放浪を切り上げて、江戸へ帰るべきよすがはなかった。まして家名の再興などは、思いも及ばぬことであったのである。実之助は、憎悪よりも、むしろ打算の心からこの老僧の命を縮めようかと思った。が、激しい燃ゆるがごとき憎悪を感ぜずして、打算から人間を殺すことは、実之助にとって忍びがたいことであった。彼は、消えかかろうとする憎悪の心を励ましながら、打ち甲斐なき敵を打とうとしたのである。
その時であった。洞窟の中から走り出て来た五、六人の石工は、市九郎の危急を見ると、挺身して彼を庇《かば》い
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