ながら「了海様をなんとするのじゃ」と、実之助を咎めた。彼らの面には、仕儀によっては許すまじき色がありありと見えた。
「子細あって、その老僧を敵と狙い、端なくも今日めぐりおうて、本懐を達するものじゃ。妨げいたすと、余人なりとも容赦はいたさぬぞ」と、実之助は凛然といった。
 が、そのうちに、石工の数は増え、行路の人々が幾人となく立ち止って、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎の身体に指の一本も触れさせまいと、銘々にいきまき始めた。
「敵を討つ討たぬなどは、それはまだ世にあるうちのことじゃ。見らるる通り、了海どのは、染衣薙髪《せんいちはつ》の身である上に、この山国谷七郷の者にとっては、持地菩薩の再来とも仰がれる方じゃ」と、そのうちのある者は、実之助の敵討ちを、叶わぬ非望であるかのようにいい張った。
 が、こう周囲の者から妨げられると、実之助の敵に対する怒りはいつの間にか蘇《よみがえ》っていた。彼は武士の意地として、手をこまねいて立ち去るべきではなかった。
「たとい沙門《しゃもん》の身なりとも、主殺しの大罪は免れぬぞ。親の敵を討つ者を妨げいたす者は、一人も容赦はない」と、実之助は一刀の鞘を払った。実之助を囲う群衆も、皆ことごとく身構えた。すると、その時、市九郎はしわがれた声を張り上げた。
「皆の衆、お控えなされい。了海、討たるべき覚え十分ござる。この洞門を穿つことも、ただその罪滅ぼしのためじゃ。今かかる孝子のお手にかかり、半死の身を終ること、了海が一|期《ご》の願いじゃ。皆の衆妨げ無用じゃ」
 こういいながら市九郎は、身を挺して、実之助のそばにいざり寄ろうとした。かねがね、市九郎の強剛なる意志を知りぬいている周囲の人々は、彼の決心を翻《ひるがえ》すべき由もないのを知った。市九郎の命、ここに終るかと思われた。その時、石工の統領が、実之助の前に進み出でながら、
「御武家様も、おきき及びでもござろうが、この刳貫は了海様、一生の大誓願にて、二十年に近き御辛苦に身心を砕かれたのじゃ。いかに、御自身の悪業とはいえ、大願成就を目前に置きながら、お果てなさるること、いかばかり無念であろう。我らのこぞってのお願いは、長くとは申さぬ、この刳貫の通じ申す間、了海様のお命を、我らに預けては下さらぬか。刳貫さえ通じた節は、即座に了海様を存分になさりませ」と、彼は誠を表して哀願した。群衆は口々に、
「ことわりじゃ、ことわりじゃ」と、賛成した。
 実之助も、そういわれてみると、その哀願をきかぬわけにはいかなかった。今ここで敵を討とうとして、群衆の妨害を受けて不覚を取るよりも、刳通の竣工を待ったならば、今でさえ自ら進んで討たれようという市九郎が、義理に感じて首を授けるのは、必定であると思った。またそうした打算から離れても、敵とはいいながらこの老僧の大誓願を遂げさしてやるのも、決して不快なことではなかった。実之助は、市九郎と群衆とを等分に見ながら、
「了海の僧形にめでてその願い許して取らそう。束《つが》えた言葉は忘れまいぞ」と、いった。
「念もないことでござる。一分の穴でも、一寸の穴でも、この刳貫が向う側へ通じた節は、その場を去らず了海様を討たさせ申そう。それまではゆるゆると、この辺りに御滞在なされませ」と、石工の棟梁は、穏やかな口調でいった。
 市九郎は、この紛擾《ふんじょう》が無事に解決が付くと、それによって徒費した時間がいかにも惜しまれるように、にじりながら洞窟の中へ入っていった。
 実之助は、大切の場合に思わぬ邪魔が入って、目的が達し得なかったことを憤った。彼はいかんともしがたい鬱憤を抑えながら、石工の一人に案内せられて、木小屋のうちへ入った。自分一人になって考えると、敵を目前に置きながら、討ち得なかった自分の腑甲斐なさを、無念と思わずにはいられなかった。彼の心はいつの間にか苛《いら》だたしい憤りでいっぱいになっていた。彼は、もう刳貫の竣成を待つといったような、敵に対する緩《ゆるや》かな心をまったく失ってしまった。彼は今宵にも洞窟の中へ忍び入って、市九郎を討って立ち退こうという決心の臍《ほぞ》を固めた。が、実之助が市九郎の張り番をしているように、石工たちは実之助を見張っていた。
 最初の二、三日を、心にもなく無為に過したが、ちょうど五日目の晩であった。毎夜のことなので、石工たちも警戒の目を緩めたと見え、丑《うし》に近い頃に何人《なんびと》もいぎたない眠りに入っていた。実之助は、今宵こそと思い立った。彼は、がばと起き上ると、枕元の一刀を引き寄せて、静かに木小屋の外に出た。それは早春の夜の月が冴えた晩であった。山国川の水は月光の下に蒼く渦巻きながら流れていた。が、周囲の風物には目もくれず、実之助は、足を忍ばせてひそかに洞門に近づいた。削り取った石塊が、ところどころに散らばって、歩を運ぶたびごとに足を痛めた。
 洞窟の中は、入口から来る月光と、ところどころに刳《く》り明けられた窓から射し入る月光とで、ところどころほの白く光っているばかりであった。彼は右方の岩壁を手探《たぐ》り手探り奥へ奥へと進んだ。
 入口から、二町ばかり進んだ頃、ふと彼は洞窟の底から、クワックワッと間を置いて響いてくる音を耳にした。彼は最初それがなんであるか分からなかった。が、一歩進むに従って、その音は拡大していって、おしまいには洞窟の中の夜の寂静《じゃくじょう》のうちに、こだまするまでになった。それは、明らかに岩壁に向って鉄槌を下す音に相違なかった。実之助は、その悲壮な、凄みを帯びた音によって、自分の胸が激しく打たれるのを感じた。奥に近づくに従って、玉を砕くような鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲ってくるのであった。彼は、この音をたよりに這いながら近づいていった。この槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。ひそかに一刀の鯉口《こいぐち》を湿しながら、息を潜めて寄り添うた。その時、ふと彼は槌の音の間々に囁《ささや》くがごとく、うめくがごとく、了海が経文を誦《じゅ》する声をきいたのである。
 そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助に徹してきた。深夜、人去り、草木眠っている中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振っている了海の姿が、墨のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。それは、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振っている勇猛精進の菩薩心であった。実之助は、握りしめた太刀の柄が、いつの間にか緩んでいるのを覚えた。彼はふと、われに返った。すでに仏心を得て、衆生のために、砕身の苦を嘗めている高徳の聖《ひじり》に対し、深夜の闇に乗じて、ひはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚《しんい》の剣を抜きそばめている自分を顧《かえりみ》ると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。
 洞窟を揺がせるその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心を散々に打ち砕いてしまった。彼は、潔く竣成の日を待ち、その約束の果さるるのを待つよりほかはないと思った。
 実之助は、深い感激を懐きながら、洞外の月光を目指し、洞窟の外に這い出たのである。
 そのことがあってから間もなく、刳貫の工事に従う石工のうちに、武家姿の実之助の姿が見られた。彼はもう、老僧を闇討ちにして立ち退こうというような険しい心は、少しも持っていなかった。了海が逃げも隠れもせぬことを知ると、彼は好意をもって、了海がその一生の大願を成就する日を、待ってやろうと思っていた。
 が、それにしても、茫然と待っているよりも、自分もこの大業に一|臂《ぴ》の力を尽くすことによって、いくばくかでも復讐の期日が短縮せられるはずであることを悟ると、実之助は自ら石工に伍して、槌を振い始めたのである。
 敵と敵とが、相並んで槌を下した。実之助は、本懐を達する日の一日でも早かれと、懸命に槌を振った。了海は実之助が出現してからは、一日も早く大願を成就して孝子の願いを叶えてやりたいと思ったのであろう。彼は、また更に精進の勇を振って、狂人のように岩壁を打ち砕いていた。
 そのうちに、月が去り月が来た。実之助の心は、了海の大勇猛心に動かされて、彼自ら刳貫の大業に讐敵《しゅうてき》の怨みを忘れようとしがちであった。
 石工共が、昼の疲れを休めている真夜中にも、敵と敵とは相並んで、黙々として槌を振っていた。
 それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享《えんきょう》三年九月十日の夜であった。この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」と、思わず声を上げた。その時であった。了海の朦朧たる老眼にも、紛《まぎ》れなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう」と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺《うご》めかしたのである。
「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」
 こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。が、しばらくすると了海は身を退《すさ》って、
「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱《こまね》いて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋《しな》びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕《かいな》によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。



底本:「菊池寛 短編と戯曲」 文芸春秋
   1988(昭和63)年3月第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:伊藤祥
1999年2月1日公開
2001年12月29日修正
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