づくと、その中の一人は、早くも市九郎の姿を見つけて、
「これは、よいところへ来られた。非業の死を遂げた、哀れな亡者じゃ。通りかかられた縁に、一遍の回向《えこう》をして下され」と、いった。
非業の死だときいた時、剽賊《ひょうぞく》のためにあやめられた旅人の死骸ではあるまいかと思うて、市九郎は過去の悪業を思い起して、刹那に湧く悔恨の心に、両脚の竦《すく》むのをおぼえた。
「見れば水死人のようじゃが、ところどころ皮肉の破れているのは、いかがした子細じゃ」と、市九郎は、恐る恐るきいた。
「御出家は、旅の人と見えてご存じあるまいが、この川を半町も上れば、鎖渡しという難所がある。山国谷第一の切所《きりしょ》で、南北往来の人馬が、ことごとく難儀するところじゃが、この男はこの川上柿坂郷に住んでいる馬子《まご》じゃが、今朝鎖渡しの中途で、馬が狂うたため、五丈に近いところを真っ逆様に落ちて、見られる通りの無残な最期じゃ」と、その中の一人がいった。
「鎖渡しと申せば、かねがね難所とは聞いていたが、かようなあわれを見ることは、たびたびござるのか」と、市九郎は、死骸を見守りながら、打ちしめってきいた。
「一年に三、四人、多ければ十人も、思わぬ憂き目を見ることがある。無双の難所ゆえに、風雨に桟《かけはし》が朽ちても、修繕も思うにまかせぬのじゃ」と、答えながら、百姓たちは死骸の始末にかかっていた。
市九郎は、この不幸な遭難者に一遍の経を読むと、足を早めてその鎖渡しへと急いだ。
そこまでは、もう一町もなかった。見ると、川の左に聳《そび》える荒削りされたような山が、山国川に臨むところで、十丈に近い絶壁に切り立たれて、そこに灰白色のぎざぎざした襞《ひだ》の多い肌を露出しているのであった。山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたように、ここに慕い寄って、絶壁の裾を洗いながら、濃緑の色を湛えて、渦巻いている。
里人らが、鎖渡しといったのはこれだろうと、彼は思った。道は、その絶壁に絶たれ、その絶壁の中腹を、松、杉などの丸太を鎖で連ねた桟道が、危げに伝っている。かよわい婦女子でなくとも、俯して五丈に余る水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見る時は、魂消え、心|戦《おのの》くも理《ことわ》りであった。
市九郎は、岩壁に縋りながら、戦く足を踏み締めて、ようやく渡り終ってその絶壁を振り向いた刹那、彼の心にはとっさに大誓願が、勃然として萌《きざ》した。
積むべき贖罪《しょくざい》のあまりに小さかった彼は、自分が精進勇猛の気を試すべき難業にあうことを祈っていた。今目前に行人が艱難し、一年に十に近い人の命を奪う難所を見た時、彼は、自分の身命を捨ててこの難所を除こうという思いつきが旺然として起ったのも無理ではなかった。二百余間に余る絶壁を掘貫《ほりつらぬ》いて道を通じようという、不敵な誓願が、彼の心に浮かんできたのである。
市九郎は、自分が求め歩いたものが、ようやくここで見つかったと思った。一年に十人を救えば、十年には百人、百年、千年と経つうちには、千万の人の命を救うことができると思ったのである。
こう決心すると、彼は、一途に実行に着手した。その日から、羅漢寺の宿坊に宿《とま》りながら、山国川に添うた村々を勧化《かんげ》して、隧道開鑿《ずいどうかいさく》の大業の寄進を求めた。
が、何人《なんびと》もこの風来僧の言葉に、耳を傾ける者はなかった。
「三町をも超える大盤石を掘貫こうという風狂人《ふうきょうじん》じゃ、はははは」と、嗤《わら》うものは、まだよかった。「大騙《おおかた》りじゃ。針のみぞから天を覗くようなことを言い前にして、金を集めようという、大騙りじゃ」と、中には市九郎の勧説《かんぜい》に、迫害を加うる者さえあった。
市九郎は、十日の間、徒らな勧進に努めたが、何人《なんびと》もが耳を傾けぬのを知ると、奮然として、独力、この大業に当ることを決心した。彼は、石工の持つ槌と鑿《のみ》とを手に入れて、この大絶壁の一端に立った。それは、一個のカリカチュアであった。削り落しやすい火山岩であるとはいえ、川を圧して聳え立つ蜿蜒《えんえん》たる大絶壁を、市九郎は、己一人の力で掘貫こうとするのであった。
「とうとう気が狂った!」と、行人は、市九郎の姿を指しながら嗤った。
が、市九郎は屈しなかった。山国川の清流に沐浴して、観世音菩薩を祈りながら、渾身の力を籠めて第一の槌を下した。
それに応じて、ただ二、三|片《ひら》の砕片が、飛び散ったばかりであった。が、再び力を籠めて第二の槌を下した。更に二、三片の小塊が、巨大なる無限大の大塊から、分離したばかりであった。第三、第四、第五と、市九郎は懸命に槌を下した。空腹を感ずれば、近郷を托鉢し、腹満つれば絶壁に向って槌を下した。懈怠《けたい》の心を生ずれば、只真言を唱えて、勇猛の心を振い起した。一日、二日、三日、市九郎の努力は間断なく続いた。旅人は、そのそばを通るたびに、嘲笑の声を送った。が、市九郎の心は、そのために須臾《しゅゆ》も撓《たゆ》むことはなかった。嗤笑《ししょう》の声を聞けば、彼はさらに槌を持つ手に力を籠めた。
やがて、市九郎は、雨露を凌《しの》ぐために、絶壁に近く木小屋を立てた。朝は、山国川の流れが星の光を写す頃から起き出て、夕は瀬鳴《せなり》の音が静寂の天地に澄みかえる頃までも、止めなかった。が、行路の人々は、なお嗤笑の言葉を止めなかった。
「身のほどを知らぬたわけじゃ」と、市九郎の努力を眼中におかなかった。
が、市九郎は一心不乱に槌を振った。槌を振っていさえすれば、彼の心には何の雑念も起らなかった。人を殺した悔恨も、そこには無かった。極楽に生れようという、欣求《ごんぐ》もなかった。ただそこに、晴々した精進の心があるばかりであった。彼は出家して以来、夜ごとの寝覚めに、身を苦しめた自分の悪業の記憶が、日に薄らいでいくのを感じた。彼はますます勇猛の心を振い起して、ひたすら専念に槌を振った。
新しい年が来た。春が来て、夏が来て、早くも一年が経った。市九郎の努力は、空しくはなかった。大絶壁の一端に、深さ一丈に近い洞窟が穿《うが》たれていた。それは、ほんの小さい洞窟ではあったが、市九郎の強い意志は、最初の爪痕《そうこん》を明らかに止めていた。
が、近郷の人々はまた市九郎を嗤った。
「あれ見られい! 狂人坊主が、あれだけ掘りおった。一年の間、もがいて、たったあれだけじゃ……」と、嗤った。が、市九郎は自分の掘り穿った穴を見ると、涙の出るほど嬉しかった。それはいかに浅くとも、自分が精進の力の如実《にょじつ》に現れているものに、相違なかった。市九郎は年を重ねて、また更に振い立った。夜は如法《にょほう》の闇に、昼もなお薄暗い洞窟のうちに端座して、ただ右の腕のみを、狂気のごとくに振っていた。市九郎にとって、右の腕を振ることのみが、彼の宗教的生活のすべてになってしまった。
洞窟の外には、日が輝き月が照り、雨が降り嵐が荒《すさ》んだ。が、洞窟の中には、間断なき槌の音のみがあった。
二年の終わりにも、里人はなお嗤笑を止めなかった。が、それはもう、声にまでは出てこなかった。ただ、市九郎の姿を見た後、顔を見合せて、互いに嗤い合うだけであった。が、更に一年経った。市九郎の槌の音は山国川の水声と同じく、不断に響いていた。村の人たちは、もうなんともいわなかった。彼らが嗤笑の表情は、いつの間にか驚異のそれに変っていた。市九郎は梳《くしけず》らざれば、頭髪はいつの間にか伸びて双肩を覆い、浴《ゆあみ》せざれば、垢づきて人間とも見えなかった。が、彼は自分が掘り穿った洞窟のうちに、獣のごとく蠢《うごめ》きながら、狂気のごとくその槌を振いつづけていたのである。
里人の驚異は、いつの間にか同情に変っていた。市九郎がしばしの暇を窃《ぬす》んで、托鉢の行脚に出かけようとすると、洞窟の出口に、思いがけなく一椀の斎《とき》を見出すことが多くなった。市九郎はそのために、托鉢に費やすべき時間を、更に絶壁に向うことができた。
四年目の終りが来た。市九郎の掘り穿った洞窟は、もはや五丈の深さに達していた。が、その三町を超ゆる絶壁に比ぶれば、そこになお、亡羊《ぼうよう》の嘆があった。里人は市九郎の熱心に驚いたものの、いまだ、かくばかり見えすいた徒労に合力するものは、一人もなかった。市九郎は、ただ独りその努力を続けねばならなかった。が、もう掘り穿つ仕事において、三昧に入った市九郎は、ただ槌を振うほかは何の存念もなかった。ただ土鼠《もぐら》のように、命のある限り、掘り穿っていくほかには、何の他念もなかった。彼はただ一人|拮々《きつきつ》として掘り進んだ。洞窟の外には春去って秋来り、四時の風物が移り変ったが、洞窟の中には不断の槌の音のみが響いた。
「可哀そうな坊様じゃ。ものに狂ったとみえ、あの大盤石を穿っていくわ。十の一も穿ち得ないで、おのれが命を終ろうものを」と、行路の人々は、市九郎の空しい努力を、悲しみ始めた。が、一年経ち二年経ち、ちょうど九年目の終りに、穴の入口より奥まで二十二間を計るまでに、掘り穿った。
樋田郷《ひだのごう》の里人は、初めて市九郎の事業の可能性に気がついた。一人の痩せた乞食僧が、九年の力でこれまで掘り穿ち得るものならば、人を増し歳月を重ねたならば、この大絶壁を穿ち貫くことも、必ずしも不思議なことではないという考えが、里人らの胸の中に銘ぜられてきた。九年前、市九郎の勧進をこぞって斥《しりぞ》けた山国川に添う七郷の里人は、今度は自発的に開鑿《かいさく》の寄進に付いた。数人の石工が市九郎の事業を援けるために雇われた。もう、市九郎は孤独ではなかった。岩壁に下す多数の槌の音は、勇ましく賑やかに、洞窟の中から、もれ始めた。
が、翌年になって、里人たちが、工事の進み方を測った時、それがまだ絶壁の四分の一にも達していないのを発見すると、里人たちは再び落胆疑惑の声をもらした。
「人を増しても、とても成就はせぬことじゃ。あたら、了海どのに騙《たぶら》かされて要らぬ物入りをした」と、彼らははかどらぬ工事に、いつの間にか倦ききっておった。市九郎は、また独り取り残されねばならなかった。彼は、自分のそばに槌を振る者が、一人減り二人減り、ついには一人もいなくなったのに気がついた。が、彼は決して去る者を追わなかった。黙々として、自分一人その槌を振い続けたのみである。
里人の注意は、まったく市九郎の身辺から離れてしまった。ことに洞窟が、深く穿たれれば穿たれるほど、その奥深く槌を[#底本には「槌を」が抜けている]振う市九郎の姿は、行人の目から遠ざかっていった。人々は、闇のうちに閉された洞窟の中を透し見ながら、
「了海さんは、まだやっているのかなあ」と、疑った。が、そうした注意も、しまいにはだんだん薄れてしまって、市九郎の存在は、里人の念頭からしばしば消失せんとした。が、市九郎の存在が、里人に対して没交渉であるがごとく、里人の存在もまた市九郎に没交渉であった。彼にはただ、眼前の大岩壁のみが存在するばかりであった。
しかし、市九郎は、洞窟の中に端座してからもはや十年にも余る間、暗澹たる冷たい石の上に座り続けていたために、顔は色蒼ざめ双の目が窪んで、肉は落ち骨あらわれ、この世に生ける人とも見えなかった。が、市九郎の心には不退転の勇猛心がしきりに燃え盛って、ただ一念に穿ち進むほかは、何物もなかった。一分でも一寸でも、岸壁の削り取られるごとに、彼は歓喜の声を揚げた。
市九郎は、ただ一人取り残されたままに、また三年を経た。すると、里人たちの注意は、再び市九郎の上に帰りかけていた。彼らが、ほんの好奇心から、洞窟の深さを測ってみると、全長六十五間、川に面する岩壁には、採光の窓が一つ穿たれ、もはや、この大岩壁の三分の一は、主として市九郎の瘠腕《やせうで》によって、貫かれていることが分かった。
彼らは、再び驚異の目を見開いた。彼らは、過去の無知を恥じた。市九郎に対する尊崇の心は、再
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