の手段であった。その男は、お弓の言葉をきくと、
「それならば、茶なと一杯所望しようか」といいながら、もう彼らの第一の罠に陥ってしまった。女は赤い紐のついた旅の菅笠《すげがさ》を取りはずしながら、夫のそばに寄り添うて、腰をかけた。
彼らは、ここで小半刻も、峠を登り切った疲れを休めると、鳥目《ちょうもく》を置いて、紫に暮れかかっている小木曾《おぎそ》の谷に向って、鳥居峠を降りていった。
二人の姿が見えなくなると、お弓は、それとばかり合図をした。市九郎は、獲物を追う猟師のように、脇差を腰にすると、一散に二人の後を追うた。本街道を右に折れて、木曾川の流れに沿うて、険しい間道を急いだ。
市九郎が、藪原の宿手前の並木道に来た時は、春の長い日がまったく暮れて、十日ばかりの月が木曾の山の彼方に登ろうとして、ほの白い月しろのみが、木曾の山々を微かに浮ばせていた。
市九郎は、街道に沿うて生えている、一|叢《むら》の丸葉柳の下に身を隠しながら、夫婦の近づくのを、徐《おもむろ》に待っていた。彼も心の底では、幸福な旅をしている二人の男女の生命を、不当に奪うということが、どんなに罪深いかということを、考え
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