かった。市九郎は、彼らの二、三人をたおして、その年の生活費を得たいと思っていた。木曾街道にも、杉や檜に交って咲いた山桜が散り始める夕暮のことであった。市九郎の店に男女二人の旅人が立ち寄った。それは明らかに夫婦であった。男は三十を越していた。女は二十三、四であっただろう。供を連れない気楽な旅に出た信州の豪農の若夫婦らしかった。
市九郎は、二人の身形《みなり》を見ると、彼はこの二人を今年の犠牲者にしようかと、思っていた。
「もう藪原の宿まで、いくらもあるまいな」
こういいながら、男の方は、市九郎の店の前で、草鞋《わらじ》の紐を結び直そうとした。市九郎が、返事をしようとする前に、お弓が、台所から出てきながら、
「さようでございます、もうこの峠を降りますれば半道もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」と、いった。市九郎は、お弓のこの言葉を聞くと、お弓がすでに恐ろしい計画を、自分に勧めようとしているのを覚えた。藪原の宿までにはまだ二里に余る道を、もう何ほどもないようにいいくるめて、旅人に気をゆるさせ、彼らの行程が夜に入るのに乗じて、間道を走って、宿の入口で襲うのが、市九郎の常套
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