へ帰ってみると、同輩はなんともいわなかった。惣八郎はと見ると、篝火《かがりび》の火影《ほかげ》で、鑷《けぬき》を使っていた。惣八郎は今日のできごとを誰にも披露しなかったのだ、と思った。が、甚兵衛の心のうちには、それに対する感謝の心は湧かなかった。彼は、二重に恩を着たような心がして、心苦しくさえ思ったのである。
 その後も、惣八郎が金の十字架を分捕りしたという話をする者はあったが、しかしそのできごとについては、誰も一言もいわなかった。甚兵衛は、自分の前を憚《はばか》っていわぬのかと思った。が、しかし、それは彼の邪推であることが間もなく分かった。
 甚兵衛は、一心に報恩の機会を待った。惣八郎とは、陣中で朝夕《ちょうせき》顔を見合わしたが、惣八郎はなんとも、その日のできごとについては、いわなかった。甚兵衛の方でも、自らその日のできごとについて語るのを避けた。彼が惣八郎から恩を受けたことを、惣八郎に対して公認することがいかにも不快であった。今にも、恩返しをしてやると心のうちで思っていた。
 やがて、正月五日になると、上使松平伊豆守が天草表へ到着した。甚兵衛は、華々しい城攻めが近づいて来たことを
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