桶狭間合戦
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)古渡《こわたり》城

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(例)平手|中務《なかつかさ》政秀

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(例)さい[#「さい」に傍点]

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 (例)将士銜[#レ]枚馬結[#レ]舌
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       信長の崛起

 天文十八年三月のこと、相遠参三ヶ国の大名であった今川氏を始めとし四方の豪族に対抗して、尾張の国に織田氏あることを知らしめた信秀が年四十二をもって死んだ。信秀死する三年前に古渡《こわたり》城で元服して幼名吉法師を改めた三郎信長は、直《ただち》に父の跡を継いで上総介と号した。
 信秀の法事が那古野《なこの》は万松寺に営まれた時の事である。重臣始めきらびやかに居並んで居る処に、信長先ず焼香の為に仏前に進んだ。
 今からは織田家の大将である信長が亡父の前に立った姿を見て一堂の者は驚いた。長柄の太刀脇差を三五縄《しめなわ》でぐるぐる巻にし、茶筌《ちゃせん》にゆった髪は、乱れたままである上に袴《はかま》もはかないと云う有様である。そして抹香を一攫《ひとつか》みに攫んで投げ入れると一拝して帰って仕舞った。信長の弟勘十郎信行の折目正しい肩衣《かたぎぬ》袴で慇懃《いんぎん》に礼拝したのとひき比べて人々は、なる程信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だと嘲り合った。心ある重臣達は織田家の将来を想って沈んだ気持になって居たが、其中に筑紫からこの寺に客僧となって来て居る坊さんが、信長公こそは名国主となる人だと云ったと伝えられて居る。この坊さんなかなか人を見る目があったと云う事になるわけだが、なにしろ幼年時代からこの年頃にかけての信長の行状はたしかに普通には馬鹿に見られても文句の云い様がない程であった。尾張の治黙《じもく》寺に手習にやられたが、勿論手習なんぞ仕様ともしない。川から鮒《ふな》を獲って来て蕗《ふき》の葉で膾《なます》を造る位は罪の無い方で、朋輩の弁当を略奪して平げたりした。町を通りながら、栗、柿、瓜をかじり、餅をほおばった。人が嘲けろうが指さそうがお構いなしである。
 十六七までは別に遊びはしなかったが、ただ、朝夕馬を馳《か》けさせたり、鷹野を催したり、春から秋にかけて川に飛び込んだりして日を暮して居た。しかし朋友を集めて竹槍をもって戦わしめたりする時に、褒美を先には少く後から多く与へた事や、当時から槍は三間柄が有利であるとの見解を持って居た事や、更に其頃次第に戦陣の間に威力を発揮して来た鉄砲の稽古に熱心であった事などを見ると、筑紫の坊さんの眼識を肯定出来そうである。
 この様に何処かに争われない処を見せながらも、その日常は以前と異なる事がなかった。
 平手|中務《なかつかさ》政秀は信長のお守役であるが、前々から主信長の行状を気に病んで居た。色々と諫《いさ》めては見るものの一向に験目《ききめ》がない。その中《うち》にある時、政秀の長男に五郎右衛門というのがあって、好い馬を持って居たのを、馬好きの信長見て所望した処、あっさりと断られてしまった。親爺も頑固なら息子も強情だと、信長の機嫌が甚だよくない。政秀之を見て今日までの輔育が失敗して居るのに、更にまた息子の縮尻《しくじり》がある。此上は死を以って諫めるほかに道はないと決意して、天文二十二年|閏《うるう》正月十三日、六十幾歳かの雛腹|割《さ》いて果てた。
 その遺書には、
 心を正しくしなければ諸人誠をもって仕えない、ただ才智|許《ばか》りでなく度量を広く持たれます様に、
 無慾にして依古贔屓《えこひいき》があってはならない、能才を見出さなければならない、
 武のみでは立ちがたいものである、文を修められますように、
 礼節を軽んぜられませぬように、
 等々の箇条があった。
 信長涙を流して悔いたけれども及ばない。せめてと云うので西春日井郡|小木《おぎ》の里に政秀寺という菩提寺を建て寺領二百石を附した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)
 信長鷹野で小鳥を得ると、政秀この鳥を食えよと空になげ、小川の畔《ほとり》に在っては政秀この水を飲めよと叫び涙を流した。
 政秀の諫死《かんし》によって信長大いに行状を改めたが同時に、その天稟《てんびん》の武威を振い出した。
 十六歳の時から桶狭間《おけはざま》合戦の二十七歳までは席の安まる間もなく戦塵をあびて、自らの地盤を確保するに余念がなかった。
 元来織田氏の一族は屋張一帯に拡がって居て各々割拠して居たのだが、信長清須の主家織田氏を凌《しの》ぐ勢であったので、城主織田彦五郎は、斯波《しば》義元を奉じて、同族松葉城主織田伊賀守、深田城主織田左衛門|尉《じょう》等と通じて一挙に信長を滅そうとした。信長、守山に在る叔父孫三郎信光と共に、機先を制して天文二十一年八月十六日、那古野に出で三方より清須城を攻めた。翌年になって終《つい》に清須を落して自ら遷《うつ》り住し、信光をして郡古野に、その弟信次を守山に居らしめた。処がこの守山(清須から三里)に居る信次が弘治元年の夏家臣と共に川に釣に出かけた時に、一人の騎士が礼もしないで通り過ぎたのを、怒って射殺した事がある。殺してみた騎士が信長の弟の秀孝であったので、信次は仰天してそのまま逃走して仕舞った。秀孝の兄の信行は之を聞いて末森から馳せて守山に来り城下を焼き払い、信長また清須から馬を馳せつける騒ぎであった。
 さてまたこの信行であるが、末森城に於て重臣林通勝、柴田勝家等に鞠育《きくいく》されて居たが、老臣共は信長の粗暴を嫌って信行に織田の跡を継せようと企てた。しかし信長との戦《いくさ》では直に破れたので一旦許を乞うた。信長も許したが猶《なお》も勝家等の諫を聴かずして叛《そむ》こうとしたので、ついに信長、謀《はかりごと》をもって之を暗殺した。弘治二年十一月のことである。
 更に異母兄に当る織田信広や、岩倉城主織田信安等の叛乱があったが、みな信長に平定せられた。
 以上は皆同族の叛乱であるが、この外に東隣今川氏の部将との交渉がある。愛知郡鳴海の城主で山口左馬助と云うのが織田信秀の将として今川氏に備えて居た。信秀が死んで信長の代になると、信長頼むに足らぬと考えたかどうか叛いて今川氏について仕舞った。そして愛知郡の笠寺と中村に城を築き、自分は中村に、今川の将戸部豊政を笠寺に、自分の子の九郎二郎を鳴海に居らせた。信長棄てて置かれないので天文二十一年自ら来って攻めたけれども却って破られたので、勢を得たのは左馬助である。大高、沓掛《くつかけ》等をも占領した。信長は今度は笠寺を攻めて見たが豊政|驍勇《ぎょうゆう》にして落城しそうもない。そこで信長は考えた末、森|可成《よしなり》を商人に化けさせて駿河に潜入させ、義元に豊政のことを讒言《ざんげん》させた。義元正直に受取って豊政を呼び返して殺し、次いで左馬助をも疑って、之も呼び寄せて殺してしまった。
 旧主に叛いた左馬助としてみれば因果応報であるが、信長も相当に反間を用いている。尤も乱世の英雑で反間を用いない大将なんて無いのであるから、特別の不思議はない筈であるが。
 とにかく、この様な苦闘を経て、漸く勢を四方に張ろうとして来た信長と、駿遠参三ヶ国を擁して、西上の機を窺って居た今川義元とが、衝突するに至るのは、それこそ歴史上の必然であったわけだ。

       今川義元の西進

 群確割拠の戦国時代は一寸見には、徒《いたず》らに混乱した暗黒時代の様に見られるけれども、この混乱の中に、自《おのずか》ら統一に向おうとする機運が動いて居るのを見逃してはなるまい。英雄豪傑が東西に戦って天下の主たろうと云う望を各自が抱いて居るのは、彼等の単なる英雄主義の然らしめたことではなくて、現実に、政治上からも経済上からも、統一の機運に乗じようと考えた処からである。此時代になって、兵農の分離は全く明かになり、地方的な商業も興り、足利時代に盛になった堺を始めとして、東の小田原、西の大阪、山口等次第に都会の形成をも来して来たのであるが、此|秋《とき》に当って、小さく地方に、自分丈の持前を守って居ようなど考えて居る者達は、より大なろうとして居る強者の為にもみつぶされて仕舞うことになる。志ある者は必ず上洛して、天子の下に、政治経済の権を握って富強を致そうと望むのが当然である。こうして西上の志あった者に、武田信玄があり上杉謙信があった。今川義元も亦、三大国を擁して西上の志なかるべからんやである。
 義元、先ず後顧の憂を絶つ為に、自らの娘を武田晴信の子義信に嫁せしめた。北条氏とも和した。さて、いよいよ西上の段取であるが、三河の西辺の諸豪族、特に尾張の信長を破らなければ、京に至る事は出来ない。そこで、義元は当時駿河の国府に居らせた松平竹千代に、その先鋒を命じた。竹千代即ち、後年の徳川家康である。竹千代不遇であって、始めは、渥美郡|牟呂《むろ》村千石の地しか与えられず、家臣を充分に養う事にさえ苦しんだ。鳥居伊賀守忠吉は自らの財を多く松平家の為に費したとさえ伝えられている。後年三河武士と称された家臣達は何事をも忍んで機の至るを待って居た。義元の命のままに、西上の前軍を承って多くの功績を示したが、義元西上の志が粉砕された事によって、竹千代(弘治二年末義元の義弟、関口|親長《ちかなが》の女《むすめ》をめとる、後元康と称し更に家康と改む)の運命が開れようとは当人も想いつかなかったであろう。
 松平元康が、どんなに優秀な前軍を勤めたかを簡単に示すならば、弘治三年四月には刈屋を攻め、七月|大府《おおふ》に向い、翌永禄元年二月には、義元に叛き信長に通じた寺部城主鈴木|重教《しげのり》を攻め、同じく四月には兵糧《ひょうろう》を大高城に入れた。
 勿論、此頃には信長の方でも準備おさおさ怠りなく手配して居るのであって、かの大高城の如きも充分に監視して、兵糧の入ることを厳重に警戒した。若《も》し今川方から大高に兵糧を入れる気配があったら、大高に間近い鷲津、丸根の二城は法螺貝《ほらがい》を吹き立てよ、その貝を聞いたら寺部等の諸砦は速かに大高表に馳せつけよ、丹下、中島二城の兵は、丸根、鷲津の後詰《ごづめ》をせよと命じて手ぐすねひいて待ち構えて居た。
 四月十七日夜に入ると共に支度をして居た、松平次郎三郎元康は、十八の若武者ながら、大任を果すべく出発しようとした。酒井与四郎|正親《まさちか》、同小五郎忠次、石川与七郎数正等が「信長ならば必ずや城への手配を計画して居る筈である。とても兵糧入れなどは思いもよらぬ」と諫めたけれども、胸に秘策ある元康だから聴く筈がない。一丈八尺の地に黒の葵《あおい》の紋三つ附けた白旗七本を押し立てて四千余騎、粛々として進発した。家康は兵八百を率い、小荷駄千二百駄を守って大高城二十余町の処に控えて居た。前軍は鷲津、丸根、大高を側に見て、寺部の城に向い不意に之を攻めた。丁度|丑満《うしみつ》時という時刻なので、信長勢は大いに驚いて防いだが、松平勢は既に一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとさっと引上げた。引上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向い二の丸三の丸まで打ち入って同じ様に火の手を挙げる。厳重に大高城を監視して居た、丸根、鷲津の番兵達は、はるかに雄叫《おたけ》びの声がすると思っているうちに、寺部、梅ヶ坪の城に暗《やみ》をつらぬいて火が挙がるのを見て、驚き且ついぶかった。大高城に最も近い丸根、鷲津を差置いて、寺部なぞの末城を先きに攻める法はないと独合点して居たからである。怪しんで見たものの味方の危急である。取る物も取り合えず、城をほとんど空にして馳せ向った。我計略図に当れりと、暗のうちに北叟笑《ほくそえ》んだのは元康である。このすきに易々《いい》として兵糧を大高城に入れてしまった。
 この大高城兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。大高城兵糧入れに成功した元康は、五月更に大府に向い八月には衣《ころも》城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広
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