瀬、寺部の二城を落し、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。
もうこうなると正面衝突よりないわけである。
永禄三年五月|朔日《ついたち》今川義元、いよいよ全軍出発の命を下した。前軍は十日に既に発したが、一日おいた十二日、義元子|氏真《うじざね》を留守として自ら府中(今の静岡)を立った。総勢二万五千、四万と号している。掛値をする処は今の支那の大将達と同じである。
義元出発に際して幾つかの凶兆があった事が伝えられて居る。
元来義元は兄氏輝が家督を継いで居るので自分は禅僧となって富士善徳寺に住んで居った。氏輝に予が無かったので二十歳の義元を還俗《げんぞく》させて家督を譲った。今川次郎|大輔《だいふ》義元である。処が此時横槍を入れたのが義元の次兄で、花倉の寺主|良真《りょうしん》である。良真の積りでは兄である自分が家を継ぐべきなのに、自分丈が氏輝、義元と母を異にして居る為に除者《のけもの》にされたのだと、とうとう義元と戦ったが敗れて花倉寺で自殺したという事があった。
その花倉寺良真が義元出発の夜に現れ出でた。義元、枕もとの銘刀|松倉郷《まつくらごう》を抜いて切り払った。幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて曰く、「汝の運命尽きたのを告げに来たのだ」と。出陣間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。義元も敗けて居ずに「汝は我が怨敵《おんてき》である、どうして我に吉凶を告げよう」、人間でなくても虚言《うそ》をつくかも知れないとやり込めた。良真は「なる程、汝は我が怨敵だ、しかし今川の家が亡びるのが悲しくて告げに来たのだ」と云いもあえず消えてなくなった。
其他に、駿州の鎮守総社大明神に神使として目されていた白狐が居たのが、義元出発の日、胸がさけて死んで居たとも伝える。
どれも妖語妄誕だから真偽のほどはわからない。義元この戦に勝ったならば、このような話は伝らずにおめでたい話が伝っただろう。
閑話休題、十五日には前軍|池鯉鮒《ちりう》に、十七日、鳴海に来って村々に火を放った。
義元は十六日に岡崎に着いて、左の様に配軍せしめた。
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岡崎城守備 庵原《いおはら》元景等千余人
緒川、刈屋監視 堀越義久千余人
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十八日には今村を経て沓掛に来り陣し、ここで全軍の部署を定めた。
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丸根砦攻撃 松平元康 二千五百人
鷲津砦攻撃 朝比奈|泰能《やすよし》 二千人
援軍 三浦備後守 三千人
清須方面前進 葛山《くずやま》信貞 五千人
本軍 今川義元 五千人
鳴海城守備 岡部三信 七八百人
沓掛城守備 浅井政敏 千五百人
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更に大高城の鵜殿《うどの》長照をして丸根鷲津攻撃の応援をさせる。この鵜殿は先に信長の兵が来り攻めて兵糧に乏しかった時に、城内の草根《そうこん》木菓を採って、戦なき日は之れを用い、戦の日には、ほんとうの米を与えたと云う勇士である。
この今川勢の、攻進に対して、織田勢も、準備を全くととのえてあった。すなわち、
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鷲津砦 織田信平 四五百人
丸根砦 佐久間|盛重《もりしげ》 同右
丹下砦 水野忠光 同右
善照寺砦 佐久間|信辰《のぶたつ》 同右
中島砦 梶川一秀 同右
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これらの砦は丹下の砦で四十間四方に対して、あとはみな僅に十四五間四方のものに過ぎない。兵も今川勢に比べると比べものにならない位に小勢ではあるが、各部将以下死を決して少しも恐るる色がなかった。
丸根砦の佐久間大学盛重は徒らに士を殺すを惜んで、五人の旗頭《はたがしら》、服部|玄蕃允《げんばのすけ》、渡辺大蔵、太田左近、早川大膳、菊川隠岐守に退いて後軍に合する様にすすめたけれども、誰一人聴かなかった。
永禄三年五月十八日の夜は殺気を山野に満したまま更《ふ》けて行った。むし暑い夜であった。
両軍の接戦、桶狭間役
むし暑い十八日の夜が明けて、十九日の早朝、元康の部将松平|光則《みつのり》、同|正親《まさちか》、同政忠等が率いる兵が先ず丸根の砦に迫った。かねて覚悟の佐久間盛重以下の守兵は、猛烈に防ぎ戦った。正親、政忠|殪《たお》れ、光則まで傷ついたと云うから、その反撃のほどが察せられる。大将達がそんな風になったので士卒等は、忽《たちま》ちにためらって退き出した。隙を与えず盛重等、門を十文字に開いて突出して来た。元康之を望み見て、これは決死の兵だから接戦してはかなわない、遠巻にして弓銃を放てと命じたので、盛重等は忽ちにして矢玉の真ただ中にさらされて、その士卒と共に倒れた。元康の士|筧《かけひ》正則等が之に乗じて進み、門を閉ざす暇《いとま》を与えずに渡り合い、松平義忠の士、左右田正綱一番乗りをし、ついに火を放って焼くことが出来た。元康はそこで、松平家次に旗頭の首七つを、本陣の義元の下に致さしめて、捷《かち》を報告させた。義元、我既に勝ったと喜び賞して、鵜殿長照に代って大高城に入り人馬を休息させる様に命じ、長照には笠寺の前軍に合する様命じた。これが両軍接戦のきっかけであるが清須に在る信長は悠々たるものであった。
前夜信長は重臣を集めたが一向に戦事を議する様子もなく語るのは世俗の事であった。気が気でなくなった林通勝は、進み出て云った。「既に丸根の佐久間から敵状を告げて来たが、義元の大軍にはとても刃向い難い。幸に清須城は天下の名城であるからここに立籠られるがよかろう」と。
信長はあっさり答えた。「昔から籠城《ろうじょう》して運の開けたためしはない。明日は未明に鳴海表に出動して、我死ぬか彼殺すかの決戦をするのみだ」と。之を聞いた森三左衛門可成、柴田権六勝家などは喜び勇んで馬前に討死|仕《つかまつ》ろうと応《こた》えた。深更になった時分信長広間に出で、さい[#「さい」に傍点]と云う女房に何時かと尋ねた。夜半過ぎましたと答えると馬に鞍を置き、湯漬を出せと命じた。女房かしこまって昆布勝栗を添えて出すと悠々と食し終った。腹ごしらえも充分である。食事がすむと牀几に腰をかけて小鼓を取り寄せ、東向きになって謡曲『敦盛』をうたい出した。この『敦盛』は信長の常に好んで謡った処である。「……此世は常の栖《すみか》に非ず、草葉に置く白露、水に宿る月より猶怪し、金谷《かなや》に花を詠じし栄華は先立《さきだっ》て、無常の風に誘はるゝ、南楼の月を弄《もてあそ》ぶ輩《やから》も月に先立て有為の雲に隠れり。人間五十年|化転《げてん》の内を較《くら》ぶれば夢幻の如く也、一度《ひとたび》生を稟《う》け滅せぬ物のあるべきか……」
朗々として迫らない信長のうた声が、林のように静まりかえった陣営にひびき渡る。部下の将士達も大将の決死のほどを胸にしみ渡らせたことであろう。本庄正宗の大刀を腰にすると忽ち栗毛の馬に乗った。城内から出た時は小姓の岩室《いわむろ》長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎の五騎に過ぎない。そのまま大手口に差しかかると、黒々と一団が控えている。見ると森、柴田を将とした三百余騎である。「両人とも早いぞ早いぞ」と声をかけて置いて、ひた走りに馳《か》けて熱田の宮前《みやまえ》に着いた時は、その数千八百となって居た。熱田の町口には加藤|図書助順盛《ずしょのすけよりもり》が迎えに出て来て居て、出陣式法の菓子をそなえた。信長は喜んで宮に参り願文《がんもん》を奉じ神酒を飲んだ。願文は武井入道|夕菴《せきあん》に命じて作らしめたと伝うるもので、
「現今の世相混沌たるを憂えて自ら天下を平定しようと考えて居ます処、義元横暴にして来り侵して居ます。敵味方の衆寡はあだかも蟷螂《とうろう》の車轍《しゃてつ》に当る如く、蚊子《ぶんし》の鉄牛を咬《か》むが如きものがあります。願わくば天下の為に神助あらんことを」と云った意味のものであるが、果してこの様な願文を出したかどうか多少怪しい処はあるが、この戦をもって天下平定の第一歩であると考えて居た事は疑あるまいと思われる。
信長、この時、賽銭《さいせん》を神前に投げながら、「表が出ればわが勝なり」と云った。神官に調べさせると、みんな表が出たので将士が勇躍した。これは、銭《ぜに》の裏と裏とを、糊《のり》でくっつけて置いたものでみんな表が出るわけである。
既にこの頃は夜は全く明け放れて、今日の暑さを思わせるような太陽が、山の端《は》を可なり高く昇っている。信長顧みれば決死の将士千八百粛々として附いて来ているが、今川勢は、何しろ十倍を越す大軍である。少しでも味方を多勢に見せなければならないと云うので、加藤順盛に命じて町家から、菖蒲幟《しょうぶのぼり》、木綿切《もめんぎれ》等を集めさせ、熱田の者に竹棹をつけて一本ずつ持たせ、高い処に指物の様に立たせて、擬兵をつくった。
『桶狭間合戦記』に、
「熱田出馬の時信長乗馬の鞍の前輸と後輸《しずわ》とへ両手を掛け、横ざまに乗りて後輪によりかゝり鼻謡を謡ふ」
とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは一定《いちじょう》しのび草には何をしよぞ、一定かたりのこすよの……」
と云う小唄でも口ずさんで居たのであろう。決戦間近かに控えてのこの余裕ぶりは何と云っても天才的な武将である。こんな恰好で神宮を出でたつと道路の傍《わき》に、年の頃二十|計《ばか》りの若者が羽織を着、膝を付けて、信長に声を掛けられるのを待って居る様子である。信長見ると面体|勝《すぐ》れて居るので、何者だと問うと、桑原甚内と云い、嘗つて義元が度々遊びに来た寺の小僧をした事があって、義元をよく見知って居るから、願えることなら今度の戦に義元と引組んで首をとりたいと答えた。信長、刀を与えて供に加えた。毛利新助、服部小平太の両人が之を聞いて、この若者につきそって居て義元に出会おうと考えた。
今の時間で丁度八時頃、神宮の南、上知我麻祠《かみちがまのやしろ》の前で、はるか南方に当って一条の煙が、折柄の旭《あさひ》の光に、濃い紫色に輝きながら立ち上るのが見られた。丸根の砦の焼け落ちつつある煙だったのである。人馬を急がせて古鳴海《こなるみ》の手前の街道まで来ると、戦塵にまみれた飛脚の兵に出会った。丸根落ちて佐久間大学、飯尾近江守只今討死と告げるのを信長聞いて、「大学われより一時先に死んだのだ」と云って近習の士に銀の珠数を持って来させ、肩に筋違《すじか》いにかけ前後を顧みて叫んだ。「今は各自の命を呉れよ」と云うが早いか栗毛に鞭くれて馳《はし》り出した。従士達も吾劣らじと後を追うて、上野街道忽ち馬塵がうず巻いた。
丸根が落ちた後の鷲津も同様に悪戦苦闘である。今川勢は丸根に対した如く、火を放って攻めたので、信平を始め防戦の甲斐なく討死して残兵|悉《ことごと》く清須を指して落ちざるを得ない状態になった。時に午前十時頃。
鳴海の方面へ屯《たむろ》して居た佐々政次、千秋|季忠《すえただ》、前田利家、岩室|重休《しげよし》等は信長が丹下から善照寺に進むのを見て三百余人を率いて鳴海方面の今川勢にかけ合ったが衆寡敵せずして、政次、重休、季忠以下五十余名が戦死した。季忠は此時二十七歳であったが、信長あわれんでその子孫を熱田の大宮司になしたと云う。前田利家はこの戦以前に信長の怒りにふれている事があったので、その償いをするのは此時と計り、直《ただち》に敵の首を一つ得て見参《けんざん》に容れたが信長は許さない。そこで、その首を沼に投げ棄てて、更に一首をひっさげて来たが猶許されなかった。後《のち》森部の戦に一番乗りして、始めて許されたと云う。
笠寺の湯浅甚助|直宗《なおむね》と云う拾四歳の若武者は軍の声を聞いて、じっとして居れずに信長の乗かえの馬を暫時失敬して馳せ来り敵の一士を倒して首を得たので、大喜びして信長に見せた処が、みだりに部署を離れたとて叱責された。
惟住《これずみ》五郎左衛門の士、安井新左
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