持たれます様に、
無慾にして依古贔屓《えこひいき》があってはならない、能才を見出さなければならない、
武のみでは立ちがたいものである、文を修められますように、
礼節を軽んぜられませぬように、
等々の箇条があった。
信長涙を流して悔いたけれども及ばない。せめてと云うので西春日井郡|小木《おぎ》の里に政秀寺という菩提寺を建て寺領二百石を附した。(後に清須に移し今は名古屋に在る)
信長鷹野で小鳥を得ると、政秀この鳥を食えよと空になげ、小川の畔《ほとり》に在っては政秀この水を飲めよと叫び涙を流した。
政秀の諫死《かんし》によって信長大いに行状を改めたが同時に、その天稟《てんびん》の武威を振い出した。
十六歳の時から桶狭間《おけはざま》合戦の二十七歳までは席の安まる間もなく戦塵をあびて、自らの地盤を確保するに余念がなかった。
元来織田氏の一族は屋張一帯に拡がって居て各々割拠して居たのだが、信長清須の主家織田氏を凌《しの》ぐ勢であったので、城主織田彦五郎は、斯波《しば》義元を奉じて、同族松葉城主織田伊賀守、深田城主織田左衛門|尉《じょう》等と通じて一挙に信長を滅そうとした。信長、
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