、信平を始め防戦の甲斐なく討死して残兵|悉《ことごと》く清須を指して落ちざるを得ない状態になった。時に午前十時頃。
鳴海の方面へ屯《たむろ》して居た佐々政次、千秋|季忠《すえただ》、前田利家、岩室|重休《しげよし》等は信長が丹下から善照寺に進むのを見て三百余人を率いて鳴海方面の今川勢にかけ合ったが衆寡敵せずして、政次、重休、季忠以下五十余名が戦死した。季忠は此時二十七歳であったが、信長あわれんでその子孫を熱田の大宮司になしたと云う。前田利家はこの戦以前に信長の怒りにふれている事があったので、その償いをするのは此時と計り、直《ただち》に敵の首を一つ得て見参《けんざん》に容れたが信長は許さない。そこで、その首を沼に投げ棄てて、更に一首をひっさげて来たが猶許されなかった。後《のち》森部の戦に一番乗りして、始めて許されたと云う。
笠寺の湯浅甚助|直宗《なおむね》と云う拾四歳の若武者は軍の声を聞いて、じっとして居れずに信長の乗かえの馬を暫時失敬して馳せ来り敵の一士を倒して首を得たので、大喜びして信長に見せた処が、みだりに部署を離れたとて叱責された。
惟住《これずみ》五郎左衛門の士、安井新左
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