て、漸く勢を四方に張ろうとして来た信長と、駿遠参三ヶ国を擁して、西上の機を窺って居た今川義元とが、衝突するに至るのは、それこそ歴史上の必然であったわけだ。
今川義元の西進
群確割拠の戦国時代は一寸見には、徒《いたず》らに混乱した暗黒時代の様に見られるけれども、この混乱の中に、自《おのずか》ら統一に向おうとする機運が動いて居るのを見逃してはなるまい。英雄豪傑が東西に戦って天下の主たろうと云う望を各自が抱いて居るのは、彼等の単なる英雄主義の然らしめたことではなくて、現実に、政治上からも経済上からも、統一の機運に乗じようと考えた処からである。此時代になって、兵農の分離は全く明かになり、地方的な商業も興り、足利時代に盛になった堺を始めとして、東の小田原、西の大阪、山口等次第に都会の形成をも来して来たのであるが、此|秋《とき》に当って、小さく地方に、自分丈の持前を守って居ようなど考えて居る者達は、より大なろうとして居る強者の為にもみつぶされて仕舞うことになる。志ある者は必ず上洛して、天子の下に、政治経済の権を握って富強を致そうと望むのが当然である。こうして西上の志あった者に、武田信玄があり上杉謙信があった。今川義元も亦、三大国を擁して西上の志なかるべからんやである。
義元、先ず後顧の憂を絶つ為に、自らの娘を武田晴信の子義信に嫁せしめた。北条氏とも和した。さて、いよいよ西上の段取であるが、三河の西辺の諸豪族、特に尾張の信長を破らなければ、京に至る事は出来ない。そこで、義元は当時駿河の国府に居らせた松平竹千代に、その先鋒を命じた。竹千代即ち、後年の徳川家康である。竹千代不遇であって、始めは、渥美郡|牟呂《むろ》村千石の地しか与えられず、家臣を充分に養う事にさえ苦しんだ。鳥居伊賀守忠吉は自らの財を多く松平家の為に費したとさえ伝えられている。後年三河武士と称された家臣達は何事をも忍んで機の至るを待って居た。義元の命のままに、西上の前軍を承って多くの功績を示したが、義元西上の志が粉砕された事によって、竹千代(弘治二年末義元の義弟、関口|親長《ちかなが》の女《むすめ》をめとる、後元康と称し更に家康と改む)の運命が開れようとは当人も想いつかなかったであろう。
松平元康が、どんなに優秀な前軍を勤めたかを簡単に示すならば、弘治三年四月には刈屋を攻め、七月|大府《おおふ》
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