守山に在る叔父孫三郎信光と共に、機先を制して天文二十一年八月十六日、那古野に出で三方より清須城を攻めた。翌年になって終《つい》に清須を落して自ら遷《うつ》り住し、信光をして郡古野に、その弟信次を守山に居らしめた。処がこの守山(清須から三里)に居る信次が弘治元年の夏家臣と共に川に釣に出かけた時に、一人の騎士が礼もしないで通り過ぎたのを、怒って射殺した事がある。殺してみた騎士が信長の弟の秀孝であったので、信次は仰天してそのまま逃走して仕舞った。秀孝の兄の信行は之を聞いて末森から馳せて守山に来り城下を焼き払い、信長また清須から馬を馳せつける騒ぎであった。
 さてまたこの信行であるが、末森城に於て重臣林通勝、柴田勝家等に鞠育《きくいく》されて居たが、老臣共は信長の粗暴を嫌って信行に織田の跡を継せようと企てた。しかし信長との戦《いくさ》では直に破れたので一旦許を乞うた。信長も許したが猶《なお》も勝家等の諫を聴かずして叛《そむ》こうとしたので、ついに信長、謀《はかりごと》をもって之を暗殺した。弘治二年十一月のことである。
 更に異母兄に当る織田信広や、岩倉城主織田信安等の叛乱があったが、みな信長に平定せられた。
 以上は皆同族の叛乱であるが、この外に東隣今川氏の部将との交渉がある。愛知郡鳴海の城主で山口左馬助と云うのが織田信秀の将として今川氏に備えて居た。信秀が死んで信長の代になると、信長頼むに足らぬと考えたかどうか叛いて今川氏について仕舞った。そして愛知郡の笠寺と中村に城を築き、自分は中村に、今川の将戸部豊政を笠寺に、自分の子の九郎二郎を鳴海に居らせた。信長棄てて置かれないので天文二十一年自ら来って攻めたけれども却って破られたので、勢を得たのは左馬助である。大高、沓掛《くつかけ》等をも占領した。信長は今度は笠寺を攻めて見たが豊政|驍勇《ぎょうゆう》にして落城しそうもない。そこで信長は考えた末、森|可成《よしなり》を商人に化けさせて駿河に潜入させ、義元に豊政のことを讒言《ざんげん》させた。義元正直に受取って豊政を呼び返して殺し、次いで左馬助をも疑って、之も呼び寄せて殺してしまった。
 旧主に叛いた左馬助としてみれば因果応報であるが、信長も相当に反間を用いている。尤も乱世の英雑で反間を用いない大将なんて無いのであるから、特別の不思議はない筈であるが。
 とにかく、この様な苦闘を経
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