公卿《くげ》衆が来往することが屡々《しばしば》であったらしく、義元の風体も自《おのず》から雅《みやびや》かに、髪は総髪に、歯は鉄漿《かね》で染めると云う有様であった。その一方には今度の戦で沓掛で落馬した話も忘れられてはならない。しかし、とも角文武両道に心掛けたのは義元であるが、氏真と来ては父の悪い方丈しか継いで居なかった。
 義元死後も朝比奈兵衛大夫の外《ほか》立派な家老も四五人は居るのであるが、氏真、少しも崇敬せずして、三浦右衛門義元と云う柔弱《にゅうじゃく》の士のみを用いて、踊《おどり》酒宴に明け暮れした。自分が昔書いた小説に『三浦右衛門の死』と云うのがあるが、あんな少年ではなかったらしい。自分の気に入った者には、自らの妾《めかけ》を与え、裙紅《つまべに》さして人の娘の美しいのに歌を附けたりまるで武士の家に生れたことなぞは忘却の体である。かの三浦の如きは、桶狭間の勇士|故《こ》の井伊直盛の所領を望んだり、更に甚しくは義元の愛妾だった菊鶴と云う女を秘かに妻にしたりしながら国政に当ると云うのだから、心ある士が次第に離れて今川家衰亡の源を作りつつあったわけである。
 天文二十二年に義元が氏真を戒めた手紙がある。
[#ここから1字下げ]
「御辺の行跡何とも無分別《むふんべつに》候、行末何になるべき覚悟に哉《や》……弓馬は男の業也《わざなり》器用も不器用も不入候可《いらずそうろうべく》稽古事也、国を治《おさ》む文武二道なくては更に叶《かなう》べからず候、……其上君子|重《おもから》ずんば則《すなわち》威あらず義元事は不慮の為進退軽々しき心持候。さあるからに親類以下散々に智慮外の体|見及候得共《みおよびそうらえども》我一代は兎角の義に及ばず候と思《おもい》、上下の分も無き程に候へ共覚悟前ならば苦しからず候、氏真まで此《かく》の如《ごとく》にては無国主と可成《なるべく》候、能々《よくよく》此分別|之《これ》あるべし……」
[#ここで字下げ終わり]
 義元が自らの欠点をさらけ出して氏真を戒めて居る心持は察するに余りある。

 義元が文にかって居た将とすれば、信長は寧《むし》ろ真の武将であった。戦国争乱の時には文治派より武断派の方が勝を制するのは無理のない話である。信長、印形《いんぎょう》を造らせた事があるが自らのには「天下布武」、信孝のには「戈剣《かけん》平天下」、信雄のには「
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング