に兵を間米《まごみ》山に集め義元の首を馬の左脇にさげて、日暮には清須に引上げた。まさに、神速なる行動である。熱田の宮では拝謝して馬を献じ社《やしろ》を修繕することを誓った。
凱旋の翌日、獲《え》た首を検したのに二千五百余あった。下方《しもかた》九郎左衛門が生擒《いけどり》にした権阿弥《ごんあみ》をして首を名指さしめた。
清須から、二十町南須賀、熱田へゆく街道に義元塚を築き大卒塔婆を建て、千部経を読ませたと云う。
義元の野心煙と散じた一方、信長は地方の豪族からして一躍天下に名を知られた。
義元が逸した天下取りのチャンスは、はからずも信長の手に転がり込んで来たのである。
結末並に余説
この戦に於て、敗軍に属しながら、反《かえ》って不思議に運を開いたのが松平元康、後の徳川家康である。元康は五月十九日の朝、丸根を陥《おと》した後大高に居ったが、晩景になって義元の敗報が達した。諸士退軍をすすめたが、元康|若《も》し義元生きて居たら合わす顔がないとて聞かない。処に伯父水野信元が浅井道忠を使として敗報をもたらしたので、元康は部下をしてその真実であることを確めた後、十九日の午後十一時すぎ月の出を待って道忠を案内として三河に退陣したが、土寇に苦められながらやっと岡崎に着いた。着いて見ると岡崎城の今川勢は騒いで城を明け退いていたので、元康すて城ならば入らうと云ってここに居った。後永禄五年五月、水野信元のとりなしで信長と清須城に会して連合を約し、幼少から隠忍した甲斐あって次第に勢を伸す基礎を得た。元康、義元への義を想って子の氏真に弔《とむらい》合戦をすすめたけれども応ずる気色もなかった。義元は、信長の為に一敗地にまみれたとは云え三大国を領するに至った丈《だけ》にどこか統領の才ある武将であったが、子の氏真に至っては全く暗愚であると云ってよい。義元が文事を愛した話の一つに、ある戦に一士を斥候に出した処が、間もなくその士が首を一つ獲て帰った。義元は賞せずして反って斥候の役を怠ったとして軍法をもって処置しようとした。
その士うなだれたまま家隆の歌、
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苅萱《かるかや》に身にしむ色はなけれども
見て捨て難き露の下折
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とつぶやいたのを聞いて、忽ち顔の色を和《やわら》げたと云うことである。地方の大豪族である処から京の
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