強いて謁するに、夏装束と思いの外、蚊帳を身に纏うて居たと云う話がある。又袋を携えて関白料であると称し、洛中に米を乞うて歩いた公卿も有ったと云う。
 こんな世相であるから、皇室の式微も甚しかった。昼は禁廷左近の橘《たちぱな》の下に茶を売る者あり、夜は三条の橋より内侍所《ないしどころ》の燈火を望み得たとは、有名な話である。
 畏れ多い限りではあるが『慶長軍記抄』に依れば「万乗の天子も些少の銭貨にかへて宸筆《しんぴつ》を売らせ給ひ、銀紙に百人一首、伊勢物語など望みのまゝをしるせる札をつけて、御簾《みす》に結びつけ、日を経て後|詣《もう》づれば宸筆を添へて差し出さる」とある。

       戦乱の末期

 此の戦乱の後期で注目す可きは賊軍の悪名を受けた西軍が南朝の後裔《こうえい》を戴いたことである。日尊と称する方で、紀伊に兵を挙げられた。『大乗院寺社雑事記』文明三年の条に、
「此一両年日尊と号して|十方成[#二]奉書[#一]《じっぽうにほうしょをなし》|種々計略人在[#レ]之《しゅじゅけいりゃくのひとこれあり》。御醍醐院《ごだいごいん》之御末也云々」とあるが、朝敵として幕軍の為めに討たれて居
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