。武士にとっては滅多に願ってもかなえられない得意の時代が来たのだ。心行くまで彼等に腕を振わせる大舞台が開展したのだ。その意味で序幕の応仁の乱も、意義があると云うべきである。
応仁の乱の責任者として、古来最も指弾されて居るのは、将軍義政で、秕政《ひせい》と驕奢《きょうしゃ》が、その起因をなしたと云われる。
義満の金閣寺に真似て、銀閣を東山に建てたが、費用が足りなくて銀が箔《は》れなかったなど、有名な話である。大体彼は建築道楽で、寛正《かんしょう》の大飢饉に際し、死屍《しし》京の賀茂川を埋むる程なのに、新邸の造営に余念がない。
彼の豪奢の絶頂は、寛正六年三月の花頂山の花見宴であろう。咲き誇る桜の下で当時流行の連歌会を催し、義政自ら発句を作って、
「咲き満ちて、花より外に色もなし」と詠じた。一代の享楽児の面目躍如たるものがある。併し義政は単に一介の風流人ではなく、相当頭のよい男であった。天下大乱の兆、漸《ようや》くきざし、山名細川両氏の軋轢《あつれき》甚しく、両氏は互いに義政を利用しようとして居る。ところが彼は巧みに両氏の間を泳いで不即不離の態度をとって居る。だから両軍から別に憎怨《ぞ
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