つぼう》、実相院、相国寺、及び北小路町の細川勝元邸を連ねて居る。西軍は五辻通、大宮東、山名宗全邸を中心に、勘解由《かげゆ》小路にまで延びて居る。即ち、東軍は只京都の北部一角に陣するに反し、西軍は南東の二方面を扼《やく》して居る訳だ。
恰《あだか》も西軍にとって、一つの吉報が齎《もたら》された。
即ち、周防の大内政弘、及び河野通春の援軍が到着したことであった。既に持久戦に入って来た戦線は、漸く活況を帯びて来たのである。
応仁元年九月一日、西軍五万余人は大挙して三宝院を襲い、是に火を放って、京極勢の固めて居る浄花院に殺到して行った。
西軍の勢力は、日々に加わり、東軍は多くの陣地を蚕食されて、残すは只相国寺と、勝元邸だけとなった。兵火に焼かれた京都は、多く焼野原と化して、西軍の進撃には視界が開けて居て好都合である。昂然たる西軍は此の機に乗じて相国寺を奪い、東軍の羽翼を絶たんとした。
先ず彼等は一悪僧を語らって、火を相国寺に放たしめた。さしもの大伽藍《だいがらん》も焼けて、煙姻《えんえん》高く昇るのを望見するや、西軍は一挙に進撃した。此の決戦は未明から黄昏《たそがれ》まで続いたけれど勝敗決せず、疲れ果てて両軍相共に退いた。此の日の死骸は白雲《しらくも》村から東今出川迄横わり、大内及び土岐氏の討ち取った首級は、車八輛に積んでも尚余り有ったと云う。
丁度将軍義政の花の御所は、相国寺の隣りに在った。此の日余烟|濛々《もうもう》として襲い、夫人|上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》達は恐れまどって居るのに、義政は自若として酒宴を続けて居たと云う。こうなれば、義政も図々しい愉快な男ではないか。
戦後小雨あって、相国寺の焼跡の煙は収った。
此の戦闘以後は、さして大きな衝突もなく、両軍互いに持久戦策をとり、大いに防禦工事を営んで居る。宗全は高さ七丈余もある高楼を設けて、東軍を眼下に見下して得意になって居た。一方東軍では、和泉の工匠を雇入れて砲に類するものを作らせ、盛んに石木を発射せしめて敵陣を攪乱《かくらん》させたと云う。
亦面白いのは彼等将士の風流である。即ち紅絹《べにきぬ》素練を割《さ》いて小旗を作り、各々歌や詩を書いて戦場に臨んだと記録にある。
その上、兵士達には、何のための戦争だか、ハッキリ分らないのだから、凡そ戦には熱
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