った。勿論此の裏面には勝元が躍って居るのである。山名宗全、但馬に在って是《これ》を聞き、
「我軍功の封国《ほうこく》何ぞ賊徒の族をして獲せしめんや」
と嚇怒《かくど》して播磨を衝き、次いで義政の許しを得ないで入洛《じゅらく》した。当時此の駄々ッ児を相手に出来るのは細川勝元だけであった。
戦乱の勃発
唯ならぬ雲行きを見て、朝廷は、文正二年三月五日に、兵乱を避ける為め改元をした。応仁とは、
「|仁之感[#レ]物《じんのものにかんじ》、|物之応[#レ]仁《もののじんにおうずるは》、|若[#二]影随[#一][#レ]形《かげのかたちにしたがうがごとく》、|猶[#二]声致[#一][#レ]響《なおこえのひびきをいたすがごとし》」と云う句から菅原|継長《つぐなが》が勧進《かんじん》せる所である。
而も戦乱は、その年即ち応仁元年正月十八日に始まって居るのである。
慎重な勝元は、初めは反逆者の名を恐れて敢て兵火の中に投じなかった。ところが、積極的な宗全は、自ら幕府に説いて勝元の領国を押収せんとした。かく挑発されて勝元も、其の分国の兵を募り、党を集めたのである。
細川方の総兵力は十六万人を算し、斯波、畠山、京極、赤松の諸氏が加った。即ち東軍である。一方西軍たる山名方は一色、土岐、六角の諸勢を入れて総数|凡《およ》そ九万人と云われる。尤も此の数字は全国的に見た上の概算であって、初期の戦乱は専ら京都を中心とした市街戦である。
一種の私闘の如きものであるが、彼等にもその兵を動かす以上は、名分が必要であったらしい。周到な勝元は早くも幕府に参候し、義政に請うて宗全追討の綸旨《りんし》を得て居る。時に西軍が内裏《だいり》を襲い、天子を奉戴して幕府を討伐すると云う噂が立った。勝元は是を聞くや直ちに兵を率いて禁中に入り、主上を奉迎して幕府に行幸を願った。倉卒の際とて、儀仗を整える暇もなく、車駕幕府に入らんとした。所が近士の侍の間にもめ事があって、夜に至るまで幕府の門が開かなかったと云う。こんなやり方は如何にも勝元らしく、爾来《じらい》東軍は行在所《あんざいしょ》守護の任に当って、官軍と呼ばれ、西軍は止むを得ず賊軍となった。
宗全は斯うした深謀には欠けて居たが、実際の戦争となると勝元より遙かに上手だ。
先ず陣の布《し》き方を見ると、東軍は幕府を中心にして、正実坊《しょうじ
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