部下が、却って一揆に参加して諸処に強奪を働いたと云う。
その乱脈思う可きである。
亦当時は博奕《ばくち》が非常に盛んであった。
武士など自分の甲冑、刀剣を質に置いてやった。勢い戦場には丸腰で、只|鯨波《とき》の声の数だけに加わるような始末である。それも昂じて他人の財産を賭けて、争うに至ったと云う。つまり負けたらば、何処《どこ》其処の寺には宝物《ほうもつ》が沢山あるから、それを奪って遣《つかわ》すべしと云ったやり方である。
こんな全く無政府的な世相に口火を切って、応仁の乱を捲き起したのが、実に細川山名二氏の勢力争いである。
元来室町幕府にあっては、斯波《しば》、畠山、細川の三家を三職と云い、相互に管領に任じて、幕府の中心勢力となって来た。此の中《うち》、斯波氏先ず衰え、次で畠山氏も凋落《ちょうらく》した。独り残るは細川氏であり、文安二年には細川勝元が管領になって居る。
一方山名氏は、新興勢力であって、持豊に至って鬱然として細川氏の一大敵国をなして来たのである。持豊は即ち薙髪《ちはつ》して宗全と云う。性、剛腹|頑陋《がんろう》、面長く顔赤き故を以て、世人これを赤入道と呼んだ。
『塵塚物語』と云う古い本に、応仁の乱の頃、山名宗全が或る大臣家に参伺し、乱世の民の苦しみに就て、互に物語ったとある。其の時其の大臣が、色々昔の乱離の世の例を引き出して「さまざま賢く申されけるに、宗全は臆したる色もなく」一応は尤もなれど、例を引くのが気に喰わぬと云った。「例といふ文字をば、向後、時といふ文字にかえて御心得あるべし」と、直言している。
此《これ》は相当皮肉な、同時に痛快な言葉でもあって、彼が転変極まりなき時代を明確に、且つ無作法に認識して居る事を示して居る。
宗全は更に、自分如き匹夫が、貴方《あなた》の所へ来て、斯《こ》うして話しをすると云うことは、例のないことであるが、今日ではそれが出来るではないか。「それが時なるべし」(即ち時勢だ)と言い放って居るのである。
故に共同の敵なる畠山持国を却《しりぞ》けるや、厭《あ》く迄現実的なる宗全は、昨日の味方であり掩護者であった勝元に敢然対立した。尤も性格的に見ても、此の赤入道は、伝統の家に育って挙措慎重なる勝元と相容れるわけがない。
動因は赤松氏再興問題であって、将軍義政が赤松|教祐《のりすけ》に、その家を嗣がしめ播磨国を賜
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