がなかったらしい。『塵塚物語』に「およそ武勇人の戦場にのぞみて、高名はいとやすき事なり。されど、敵ながら見知らぬ人なり。又主人の為にこそ仇《あだ》ならめ、郎従|下部《しもべ》ごときに至て、いまだ一ことのいさかひもせざる人なれば、あたりへさまよひ来たる敵も、わが心おくれて打ちがたき物也とかく義ばかりこそおもからめ、その外《ほか》は皆ふだんの心のみおこりて、おほくは打ちはづす事敵も味方もひとし」
 誰も戦意がなく、ただお義理に戦争しているのだから、同じ京都で十一年間も、顔を突き合わしていても勝負が、定《き》まらないのだ。

       京都の荒廃

「なれや知る、都は野辺の夕雲雀《ゆうひばり》、あがるを見ては落つる涙は」有名な古歌である。
 京都の荒廃は珍しいことでなく、平安朝の末期など殊に甚しかったように思う。併し応仁の大乱に依って、京都は全く焼土と化して居る。実際に京都に戦争があったのは初期の三四年であったが、此の僅かの間の市街戦で、洛中洛外の公卿《くげ》門跡が悉《ことごと》く焼き払われて居るのである。『応仁記』等に依って見ると、如何に被害が甚大であったかを詳細に列挙して、「計らざりき、万歳期せし花の都、今何ぞ狐狼の臥床とならんとは」と結んで居る。
 思うにこれは単に市街戦の結果とばかりは、断ぜられないのである。敵の本拠は仕方がないとしても、然らざる所に放火して財宝を掠《かす》め歩いたのは、全く武士以下の歩卒の所業であった。即ち足軽の跋扈《ばっこ》である。
『長興記』をして、「本朝五百年来此の才学なし」とまで評さしめた当時の碩学《せきがく》一条|兼良《かねよし》は『樵談《しょうだん》治要』の中で浩歎して述べて居る。
「昔より天下の乱るゝことは侍《はべ》れど、足軽といふ事は旧記にもしるさゞる名目なり。此たびはじめて出来たる足軽は、超悪したる悪党なり。其故《それゆえ》に洛中洛外の諸社、諸寺、五山|十刹《じっさつ》、公家、門跡の滅亡はかれらが所行なり。ひとへに昼強盗といふべし。かゝるためしは先代未聞のことなり」
 そして更に、これは今の武士が武芸を怠った為に、足軽が数が多く腕っ節が強いのを頼み、狼藉《ろうぜき》を働くのであって、「左《さ》もこそ下剋上の世ならめ」と憤慨して居る。
 此の『樵談治要』は応仁の乱後、彼が将軍|義尚《よしひさ》に治国の要道を説いたものから成って
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