居るのであるから、先ず当時に於ける悲惨な知識階級の代表的な意見であろう。彼自身、家は焼かれ貴重な典籍の多くを失って居るのである。
とに角職業的な武士が駄目になって、数の多い活溌な足軽なんかが、戦術的にも重要な軍事要素となったことは、次に来る戦国時代を非常に興昧あるものとして居る。
併し一定の社会秩序に生活の基礎を置く貴族階級にしてみれば、これ程心外な現象もないし、実際下剋上と云う言葉の意味も、現在我々が想像する以上に、深刻なものだったらしい。
兼良は奈良の大乗院に避難して居る。元来奈良の東大寺、興福寺等の大寺では、自ら僧兵を置いて自衛手段を講じて居たので、流寓の公卿を養う事が出来た。併し後には、余りに其の寄寓が多いので費用がかさみ、盛んに、その寺領である諸国の荘園に、用米の催促をして居るのである。諸荘では大いに不満の声を上げたが、此度は是非にも徴集に応ずべきことなりと強制されて居る。
其他公卿は、地方の豪族に身を寄せたり、自ら領地に帰って農民に伍して生計を立てたりして、京都に留る者は殆んど無かった。
其の頃ある公卿に謁せんとした所、夏装束にて恥しければと言う。苦しからずとて、強いて謁するに、夏装束と思いの外、蚊帳を身に纏うて居たと云う話がある。又袋を携えて関白料であると称し、洛中に米を乞うて歩いた公卿も有ったと云う。
こんな世相であるから、皇室の式微も甚しかった。昼は禁廷左近の橘《たちぱな》の下に茶を売る者あり、夜は三条の橋より内侍所《ないしどころ》の燈火を望み得たとは、有名な話である。
畏れ多い限りではあるが『慶長軍記抄』に依れば「万乗の天子も些少の銭貨にかへて宸筆《しんぴつ》を売らせ給ひ、銀紙に百人一首、伊勢物語など望みのまゝをしるせる札をつけて、御簾《みす》に結びつけ、日を経て後|詣《もう》づれば宸筆を添へて差し出さる」とある。
戦乱の末期
此の戦乱の後期で注目す可きは賊軍の悪名を受けた西軍が南朝の後裔《こうえい》を戴いたことである。日尊と称する方で、紀伊に兵を挙げられた。『大乗院寺社雑事記』文明三年の条に、
「此一両年日尊と号して|十方成[#二]奉書[#一]《じっぽうにほうしょをなし》|種々計略人在[#レ]之《しゅじゅけいりゃくのひとこれあり》。御醍醐院《ごだいごいん》之御末也云々」とあるが、朝敵として幕軍の為めに討たれて居
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