るのである。其の後、日尊に取立てられた小倉の御子で、御齢十七歳なる方が、大和に挙兵されて居る。其の兵七十騎を従えて、錦|直垂《ひたたれ》を着用すとある。宗全雀躍して是を迎えて奉仕したと云うが、詳しい御事蹟は記録にないが、大衆文学の主人公としては、面白い存在ではないか。大衆作家も、もっと時代を溯《さかのぼ》れば、いくらでも題材はあるわけである。
とに角斯かる伝奇的な若武者が、既に遠い南朝の夢を懐いて、吉野の附近に徘徊《はいかい》して居たと云うことだけで、如何にも深い感興を覚えるのである。
文明四年にはそろそろ平和論が称えられて来た。
対峙すること既に六ヶ年、在京の諸将が戦いに倦んだことは想像出来るのである。加るに彼等の関心は、単に京都だけの戦闘だけではなかった。其の留守にして居る領国の騒乱鎮圧の為、兵を率いて帰国する者もあった。
元来応仁の大乱は、純粋なる利益問題でなくて、権力争奪問題の余波である。諸将が東西に分れた所以のものは、射利の目的と云うよりは寧ろ武士の義である。故に必死の死闘を試みる相手でなく、不倶戴天の仇敵でもない。和議を結んで各領国に帰ってその封土《ほうど》を守り、権力平均を保てば足りるのである。
これには、勝元も宗全も異議は無かった。独り悦《よろこ》ばぬのは赤松政則であって、それは休戦になればその拡張した領土を山名氏に還さねばならないからである。政則は勝元とは姻戚の間であり、東軍に在っては其の枢軸である。勝元は彼を排してまで和するの勇気もなく、此の話は中絶した。
此の後、勝元は髻《もとどり》を切ろうと云い出し、宗全は切腹をすると言って居る。思うに共に戦意無きを示して、政則を牽制せんと計ったのでもあろう。同時に彼等は此の大乱の道徳的責任を感じて居るらしいのである。多くの神社仏閣を焼き、宸襟《しんきん》を悩まし奉る事多く、此の乱の波及する所は全く予想外である。つまり、二人ともこんな積りでなかったとばかりに空恐しくなったのであろう。殊に勝元など、宗全と異って、少しでも文化的な教養があるのだから、此の乱の赴く所随分眼を掩《おお》い度い様な気分に襲われたんではないかと思う。宗全にしてもそうだが、共に中世的な無常感が相当骨身にこたえたに違いない。只勝元は薙髪すると云い、宗全は切腹すると云う所に、二人の性格なり、ものの感じ方なんかがはっきり現れて居て面白
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