間であったら、あるいはそのおいしい御馳走と、暖い炉ばたと、安楽な眠りとに誘われて、止ったかもしれません。が、しかしパトラッシュは、この老いたフランダースの犬は、遠い昔を忘れてはいませんでした。あのおじいさんと幼児とが、道ばたの泥溝《どろみぞ》に息絶った自分を救い上げ、見守ってくれたその遠い昔を。
 そとは吹雪でした。もう十時でしょう。ネルロの足跡は大方消えてしまっているので、匂いを嗅いで足跡を辿って行くパトラッシュの苦心は実にいたましいようでした。ようやく見つけ出す、すぐ消えている、また探し出す、また見失う、そんなことを百度以上もくりかえしつつ、パトラッシュははしりつづけました。この一寸先も見えない吹雪の夜を、饑えと寒さによろめきながらパトラッシュは、ただ主人を探し出すという一途な愛に支えられて走りつづけて行くのでした。ネルロの足跡は、吹雪にかき消されてはいるものの、とにかくまっすぐにアントワープに向っていることだけは分ります。パトラッシュがやっとの思いでアントワープの町はずれまで辿りつきそれから狭い曲りくねった道に入った時は、もう真夜中をすぎていました。町の中もまっくらでただ、ところ
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