アラビヤンナイト
四、船乗シンドバッド
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)貧乏《びんぼう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|番《ばん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)こうり[#「こうり」に傍点]
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 バクダッドの町に、ヒンドバッドという、貧乏《びんぼう》な荷かつぎがいました。荷かつぎというのは、鉄道の赤帽《あかぼう》のように、お金をもらって人の荷物を運ぶ人です。
 ある暑い日のお昼から、ずいぶん重い荷物をかついで歩いていましたが、しずかな通りへさしかかった時、大そうりっぱな家が立っているのが、目に入りました。ヒンドバッドは、その門のそばで、少し休むことにしました。
 その家は、とてもりっぱでした。ヒンドバッドは、まだこんなにりっぱな家を見たことがありませんでした。家のまわりの敷石《しきいし》の上には、香水がまいてありました。
 ヒンドバッドの足は、つかれて、熱《あつ》くなっていたものですから、その敷石は大へん気持がようございました。
 そして、開いてあるまどからも、何ともいえぬいい香《かお》りが、におってきていました。
 ヒンドバッドは、まあ、こんなりっぱな家には、いったい、どんな人が住んでいるのだろうかと思いました。
 それで、玄関《げんかん》に立っている番人に、
「これはいったい、どなたの家ですか。」と、聞いてみました。
 この番人は、ずいぶん上等の着物を着ていましたが、ヒンドバッドの言葉を聞いて、目をまるくしました。そして、
「まあ、お前さんは、バクダッドに住んでいながら、私のご主人さまの名を、知らないというのかい。船乗のシンドバッドさまといって、世界じゅうを船で乗りまわして、世界じゅうで一番たくさん、ぼうけんをした方じゃないか。」
と、言ったのでした。
 ヒンドバッドも、今までたびたび、このふしぎな人の名前と、その人が大したお金持であるといううわさは、聞いていました。それで、ははあなるほどと思って、もう一度、その御殿のような家を見上げました。それからまた、上等の着物を着ている番人を、じろじろ見ていました。そのうち、だんだん悲しくなってきたし、また、ねたましくもなってきました。
「あああ。」ヒンドバッドは、そう、ため息《いき》をついて、荷をかつぎ上げました。そして、天をあおぎながら、ひとりごとを言ったのです。
「まあ、なんて、ここの家の主人と、私とは、ちがうのだろう。まるで、天と地とのちがいだ。ここの家の主人は、毎日々々、お金を使いたいだけ使って、その日その日を楽しく遊ぶよりほかには、何にもすることがないのに、私ときたら、朝から晩まで、せっせと汗《あせ》を流して働いても、やっと、まずいパンを少しぽっちしか、買うことができないんだ。ああ、ああ、まあどうしてこの人は、そんなに仕合せになれたんだろう。そしてまた、私は、どうしてこう、年がら年じゅう貧乏なんだろう。」と。
 そして、三十メートルばかり歩いていると、一人の召使《めしつかい》が追っかけて来て、後からヒンドバッドの肩をたたきました。そして、
「家のだんなさまが、お前さんに会いたいから、つれて来いと、おっしゃられた。さあ、ついておいで。」
 貧乏な荷かつぎは、びっくりしました。きっと、さっきのひとりごとが、聞えたんだな、と思ったものですから。
 けれども、召使は、そんなことにはおかまいなしで、さっさとヒンドバッドを家の中へつれて入り、大広間《おおひろま》へ通しました。
 大広間には、大勢のお客さまが、テーブルをかこんで腰《こし》かけていました。テーブルの上には、おいしそうなごちそうが、いっぱいならべてあります。一ばん上座《じょうざ》に、まっ白いひげをはやしたりっぱなおじいさんが、どっしりと腰かけていました。この人がシンドバッドだったのです。
 シンドバッドは、びっくりしているヒンドバッドの方を向いて、にこにこしながら、自分のとなりへ来て腰をかけるようにと、手まねきをしました。
 そして、ヒンドバッドが腰をかけると、テーブルの上のごちそうを、とってやるようにと、召使に言いつけました。
 召使は、ヒンドバッドの前の皿《さら》に、ごちそうをたくさんもり上げ、コップには、上等のお酒をなみなみとつぎました。
 ヒンドバッドは、これは、ゆめではないかと、思いはじめました。
 ごちそうをたべ終ってから、シンドバッドはヒンドバッドの方を向いて、さっき、まどの外で、何を言っていたのか、と聞きました。
 ヒンドバッドは、大そうはずかしくなって、思わずうなだれてしまいました。そして、
「だんなさま、ごめんください。あの時は、大へんくたびれていたものですから、つい、ばかげたことを言って、失礼《しつれい》いたしました。どうぞ、お気におかけくださいませんように。」と、言いました。
 シンドバッドは、
「いや、なんで私が、お前さんをとがめたりするもんですかね。私は、お前さんを、ほんとうに気の毒《どく》だと思っていますよ。けれどもお前さん、私が、しじゅうのんきにくらしているのだと、思っちゃあこまります。それからまた、らくらくとこの財産《ざいさん》をつくり上げたと思っても、いけませんよ。これまでになるには、何年も何年も、全く命がけでかせいだからなんです。」と、言いました。
 それから、ほかのお客さまの方へ向きなおって、
「そうです、皆さん、私が今までに出あった数々のぼうけんは、どなたにだっておできになることではありません。私がきょうまでにした七へんの航海《こうかい》の話は、まだ一度もお耳に入れたことがありませんでしたが、もしも皆さんが聞きたいとお望みになるのなら、今晩からはじめてもいいと思います。」
と、言いました。
 それから召使に、荷かつぎの荷物を、家までとどけてやるように、と言いつけました。
 ヒンドバッドは残って、一番はじめの航海の話を聞くことになりました。

       一|番《ばん》はじめの航海《こうかい》の話《はなし》

 私の父は、かなりたくさんの財産を残して死にました。その時分、私はまだ若かったものですから、それをむだ使いして、も少しですっかりなくするところまでゆきました。しかし、これはうっかりしていると、貧乏人になってしまうぞと、気がついたものですから、急に大決心を起しました。そして、残っているお金をかぞえてみて、商売をすることにきめました。それから私は貿易《ぼうえき》商人の仲間へ入り、船に乗りこむことにしました。次から次と、船がつく港《みなと》で、持って行った品物を売ってお金にしたり、また、あちらの品物ととりかえっこをしようと思ったからです。
 まず、私の、一番はじめの航海がはじまりました。
 はじめの二三日は、私はだいぶ、船によいました。けれども、やがて、だんだんなれてきて、よわなくなってしまいました。
 さて、ある夕方のことでした。風がぴったりとしずまって、船のゆれも、ばったりとまってしまいました。
 ちょうどその時、私どもは、青々と草のはえた、平たい小さな島のそばを走っていたのです。その島は、まるで牧場《まきば》のようで、その向うに青々とした海が見えていました。船長はみんなに、この島へ上って、少し休んでもいいと言いました。
 私どもは大よろこびで、さっそく、この緑の牧場に上りました。そして、そこらじゅうを歩きまわったり、寝ころんだりしました。中でも、私たち五六人の者は、たき火をして、晩ごはんをこしらえようとしました。
 やっと、たき火がもえついた時分でした。船から、大きな声で、
「早く、帰って来ーい。」
と言う声が、聞えました。
 私どもが、島だとばかり思っていたのは、ほんとうは、ねむっていた、くじらの背中《せなか》だったのです。
 みんなは、波打《なみうち》ぎわへつないでおいたボートをめがけて、いちもくさんに走り出しました。けれども、私がまだボートまで行きつかないうちに、早くも、このくじらは、海の中へもぐってしまったのであります。
 私は水の中で、ずいぶんもがきました。そして、やっと板きれにとりつきました。それは、たき火をするために、船から持って来たものでした。
 ところが船では、何かごたごたがあって、私のことなんか忘れていたらしいのです。船長は、風が吹き出すと、船を出してしまいました。
 私は、波にもまれながら、とうとう、おき去りにされてしまったのであります。
 それから一晩じゅう、私は水につかっていました。そして、朝になった頃には、もうへとへとにくたびれてしまって、死ぬよりほかには仕方がないと思っていました。
 けれども、ちょうどその時、大へん大きな波がやって来ました。そして、私を持ち上げたかと思うと、ある島のがけの下へ打ち上げました。
 うれしいことには、そのがけは、よじのぼることができました。この上は、青々と草のはえた原っぱでした。そこで私は、まず何よりも休みました。
 すぐに気分がなおりました。けれども、大そうお腹《なか》がへっていたので、何かたべる物はないかとさがしに出かけました。
 少し行くと、おいしそうな果物《くだもの》の木がありました。そのそばに、きれいな水がふき出している泉《いずみ》もありました。
 私はそこで、まず食事をすまして、また何かほかにないかと思って、島の奥《おく》の方へ歩いて行きました。
 すると、ほどなく牧場に来ました。馬が、あちこちにはなしてあって、みんな草をたべていました。
 しばらく、ぼんやり立っていますと、人の話し声が聞えてきました。耳をすましていると、それがどうも、地の下で話しているようなのです。
 まもなく、草の間にかくれてあった穴から、ぬうーっと人が一人出て来ました。そして、私を見つけると、お前はだれか、どこから来たのか、とたずねました。
 それから、私を穴の中へつれて入りました。穴の中には、仲間らしい人がたくさんいました。そして、自分たちは、この島の王さまの馬がかりで、馬を買いに、この牧場へ来ているのだと言いました。
 私に、おいしい食べ物をくれて、
「お前さんは、ほんとうに運《うん》がいい人だよ。もし、あした来たんだったら、もう私たちは帰ってしまっていたからね。道を教えてあげることは、できやしなかったんだよ。」
と、言いました。
 あくる朝早く、私たちは出立《しゅったつ》しました。そして都《みやこ》につきました。
 王さまは私をよろこんで迎えてくださいました。私が出あったさいなんの話をお聞きになり、
「この者に、不自由をさせないように、気をつけてやれ。」
と、家来《けらい》にお言いつけになりました。
 さて、私は、大へん船がすきでしたから、そこにいる間、毎日のように、はとばに出かけて、ボートから荷物をおろすのを、見てくらしました。
 ある日のこと、いつものように、あちこちの船につんである、荷物をながめていました時、その中に、私の名を書いたこうり[#「こうり」に傍点]が、たくさんつんであるのを見つけました。それで、すぐに、その船長のところへ行って、そのこうりの持主《もちぬし》はだれです、と聞いてみました。
 すると船長は、
「ああ、それはね、バクダッドの商人の、シンドバッドという人のです。その人は、航海に出るとまもなく、むごたらしい死に方をなすったのです。ある時、この船に乗っていた人たちが、ねむっていた大きなくじらの背中を、草のはえている島だと思って、その上に上ったのです。そして、たき火をしました。すると、熱いので、くじらが目をさまして、いきなり海へ沈《しず》んでしまったのです。それで、たくさん人が死にました。その中にシンドバッドさんもいたのです。そういうわけですからね、私はこの品物をすっかり売って、お金にして、あの方の身内《みうち》とか、しんるいとかいう人でもあったら、お渡ししたいと思っているのです。」
と、話したのでありました。
 それで私は、
「船長、私がそのシンドバッドです。このこうりは、みんな私ので
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