った娘を連れて、よく物見遊山《ものみゆさん》に出かけるようになったのです。今までは世間からなるべく離れよう離れようとした私が、反対に世間が何となく懐《なつか》しく思われて来たのです。その頃です。私はある男を――この頃の若い人達の言葉で云えば――恋するようになったのです。笑っちゃいけませんよ。お祖母さんは懺悔の積りで話しているのですから。その男と云うのは役者なのです。後家さんの役者狂いと云えば、世間に有りふれた事で、お前さん達も苦々しく思うでしょうが、私のは少し違っていたのです。私が恋したその役者と云うのは、浅草の猿若町の守田座――これは御維新になってから、築地《つきじ》に移って今の新富座《しんとみざ》になったのですが、役者に出ていた染之助と云う役者なのです。若衆形《わかしゅがた》でしたが、人気の立たない家柄もない役者でしたが、何故《なぜ》かこの役者が舞台に出ると、私はもう凡ての事を忘れて、魂を抜かれたような、夢を見ているような、心持になってしまうのです。何でもこの役者は、大谷|友右衛門《ともえもん》と云う上方《かみがた》の千両役者、今で云えば鴈治郎《がんじろう》と云ったような役者の一座で、江戸に下ったのだが、初めは、江戸の水に合わなかったと見えて、舞台へ出てもちっとも見物受がしないのです。どんなに笑っても、きっと顔の何処《どこ》かに憂の影が、消え残っていると云ったような淋しい顔立が、見物には受けなかったと見えるのです。また、この役者の動作が、何処までも質素なのです。当り前の旧劇の役者が、怒る時は目を剥《む》いたり、泣く時は大声で喚《わ》めいたり、笑う時には小屋を揺がせるような、高声を出す代りに、この役者は泣く時も笑う時も怒る時も質素で、心から泣いたり怒ったり笑うたりする有様が、普通の人が泣いたり笑うたりするのと少しも違わないんですよ。其処《そこ》が、私の胸にピッタリ響いて来たのです。其処がその頃の見物には、少しも受けなかったところだったのですが」
「今じゃ、そう云う演《や》り方を、写実主義と云うのです。そう云う役者を見出《みいだ》したお祖母さんは、さすがにお目が高かったですね」と、私は心から感心して云った。「貴君のように冷かしてくれては、困るが、何しろ、この役者が見物に受けなければ受けないほど、私はこの役者に同情するようになったのです。この役者の芸を見てやるのは、私一人だと云う気になってね。何でも、この役者を初めて見たのは、鎌倉三代記の三浦之介をしていた時だったが、私の傍《そば》に居る見物は、皆口々に悪口を云っていたのですよ。『上方役者はてんで型を知らねえ。あすこで、時姫の肩へ手をやるって法はねえ』とか『音羽《おとわ》屋(その頃は三代目菊五郎だったが)の三浦之介とはお月様と泥鼈《すっぽん》だ。第一顔の作り方一つ知らねえ』とかそれはそれはひどい悪口ばかり云っていました。が、私は型に適《かな》っているかどうかは、知らなかったが、染之助の三浦之介は、如何《いか》にも傷ついた若い勇士が、可愛い妻と、君への義理との板ばさみになっている、苦しい胸の中を、マザマザと舞台に現しているようで、遠い昔の勇士が私の兄か何かのように懐しく思われたのでした。それ以来、私は毎日のように守田座へ行きたくなったのです。それで浅草へお参りに行くと云っては、何も知らない頑是《がんぜ》のない綾ちゃん達のお母さんを、連れて守田座へ行ったものです。それも一日通しては見ていられないから、八つ刻《どき》から――そう今の二時頃ですが、染之助の出る一幕二幕かを見に行ったのです。終《しまい》には子供を召使いに預けて、自分一人で毎日のように出かけて行くようになりました。そうなって来ると、今までは何とも思わなかった自分の美しいと云う評判が、嬉《うれ》しく思われて来たのです。何だか容貌《きりょう》自慢のようですが」と、祖母は、一寸言葉を澱《よど》ませました。私はそう云う祖母の顔を見ながら、二十四五の女盛りの祖母を想像してみました。すると、私の眼の前の老女の姿は、忽《たちま》ちに消えてしまって、清長《きよなが》の美人画から抜け出して来たような、水もたるるような妖艶《ようえん》な、町女房の姿が頭の中に歴々《ありあり》と浮びました。
「その頃まで、自分が美しいと云う噂《うわさ》を聞いても、少しも嬉しいとは思わなかったが、その頃から、自分が美しく生れたことを欣《よろこ》ぶような心になって来たのです。まあ、染之助に近づく唯一つの望みは、自分の容貌だと思ったものですからね」
「ところがね」と、祖母は急に快活らしい声に変ったかと思うと、「染之助の素顔を、一度でもいいから見たい見たいと思っていた願が叶《かな》って、外ながら染之助の素顔を見たのですよ。ところが、その素顔を一目見ると、私の三月位続いた恋
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