が、急に醒《さ》めてしまったから可笑《おか》しいのですよ。その日も、私はたった一人、娘も連れずに守田座へ行った帰り少し遅くなったので、あの馬道《うまみち》の通りを、急いで帰って来たのですよ、すると、擦《す》れ違った町娘が『あら染之助が来るよ』と、云うじゃないか。私は、その声を聞くと、もう胸がどきどきして、自分の足が地を踏んでいるのさえ分らない程に、逆上《のぼ》せてしまったのですよ。それでも、こんな機を外《はず》しては、又見る時はないと思ったから、一生懸命な心持で、振返って見ましたよ。ところが、私の直ぐ後に、色の蒼《あお》ざめたと云っても、少しどす黒い頬《ほお》のすぼんだ、皮膚のカラカラした小男が歩いて来るじゃないか、私はこんな男が、あの美しいおっとりとした染之助ではよもあるまいと思って、その男の周囲を探して見たけれども、その男の外には、樽《たる》拾いのような小僧と、十七八の娘風の女とが、歩いて来るばかりで、染之助らしい年配の男は、眼に付かないのですよ。私は、染之助の事ばかりを考えていたので、娘の言葉を聞き違えたのであろうと、内心恥しくなったけれど、念のためだと思ったから、その色の蒼い小男の後をついて行ったのですよ。すると、その男は観音様の境内《けいだい》へ入って、今仲見世のある辺にあった、水茶屋へ入るじゃないか。私も何気ない風をして、その男の前に、三尺ばかり間を隔《お》いて腰をかけたのです。男は八丈の棒縞《ぼうじま》の着物に、結城紬《ゆうきつむぎ》の羽織を着ていたが、役者らしい伊達《だて》なところは少しもないのですよ。私はきっと、人違いだと思いながら、何気なく見ていると、物の云い方から身の扱《こな》し方まで、舞台の上の染之助とは、似ても似つかぬほど、卑しくて下品で、見ていられないのですよ。こんな男が、染之助であっては堪《たま》らないと思っていると、丁度其処へ三尺帯をしめた遊人らしい男が、二人連で入って来て、染之助を見ると、
『やあ! 染之助さん、芝居の方はもう閉場《はね》ましたかい』と、云うじゃないか。私は身も世もないように失望してしまいました。染之助の美しさは、舞台の上だけのまぼろし[#「まぼろし」に傍点]で、本当の人間はこんなに醜いのかと思うと、私は身を切るように落胆したものですよ。すると、その遊び人のような男が、
『どうです、親方。花川戸《はなかわど》の辰親分の内で、いい賭場《とば》が開いていますぜ』と云うじゃありませんか。これで見ると、染之助という男は、こんな男を相手に賭博《とばく》を打つような身持の悪い男だと分りました。私は、悪夢が醒めたような心持で、怖しいもの汚らわしいものから、逃《のが》れるように逃げ帰ったのです」
「まあ、それでよかった。もし、お祖母さんが、そんな役者に騙《だま》されでもしたら、綾子なんかはどうなっていたかも分らない」と、私はホッとしたように云いました。
「ところが、まだ後日|譚《ものがたり》があるのですよ。……その日、私は家へ帰ってから、つくづく考えたのです。私が恋しいと思っていたのは、染之助と云うような役者ではなく、染之助が扮《ふん》している三浦之介とか勝頼とか、重次郎とか、維盛《これもり》とか、ああした今の世には生きていない、美しい凛々《りり》しい人達ではなかったかと、そう思うと、我ながら合点が行ったように思うのでした。お祖父さんに、散々|苛《いじ》められて世の中の男が、嫌《いや》になった私は、そう云う舞台の上に出て来る、昔の美しい男達を恋していたのかも分らなかったのよ。私は、そう思うと、素顔の染之助の姿が堪らない程嫌になって、日参のように守田座へ行ったのが、気恥しくなり、それきり守田座へは足踏みしなくなったのです」と、祖母は話を終りそうにしました。
「それぎりですか。それでもう、染之助とか云う人にはお逢《あ》いになりませんでしたか」と、私が後を話させるように質問しますと、
「だから、後日譚があると云ったじゃありませんか。半年ばかりは、守田座へ足踏みしなかったのですが、ある日の事娘が、
『お母さん、この頃はちっとも、お芝居に行かないのね。昨日、お師匠様の所で聞いたのよ。今度の守田座はそれはそれは大変な評判ですってね』と、云うじゃありませんか。娘を踊りのお稽古《けいこ》にやってあったのですが、そこで芝居の噂を聞いて来たらしいのです。素顔の染之助を見た時に感じた不愉快さが、段々醒めかかっていた頃ですから、私は芝居だけ見る分には、差支《さしつか》えはあるまいと思って、娘を連れて、守田座へ行って見たのです。芸題は忠臣蔵の通しで、染之助は勘平をやっているじゃありませんか。私はあの五段目の山崎街道のところで、勘平が――本当は染之助が、鉄砲と火繩とを持って花道から息せき切って駆けつけるのを見た時に、アッ
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