とばかりに感歎してしまったのです。あの馬道の通りで見た、色の蒼黒い、頬のすぼんだみすぼらしい男の代りに、如何にも零落《おちぶ》れた武士にあるような、やさしみと品位とを持った男が一生懸命な心持で、駆け付けて来たありさまが、何とも云えず、美しく勇しく私の胸に映ったのです。馬道で見た染之助の素顔のみにくさなどは、何処かに消えてしまいました。私は染之助の勘平を一目見ると、忽ち昔と同じような有頂天な、心持になってしまったのです。それからと云うものは、又毎日のように染之助を見に行きました。今度は染之助に惚《ほ》れているのではない、染之助の扮している芝居の役々に惚れているのだと、自分でもよく判《わか》っていましたから、私は守田座へ毎日のように通うのが、少しも恥しいと思われませんでした。前よりも、おっぴらに、誰に遠慮も入らないと思いましたから、平土間の成るべく舞台に近い、よい場所を買切って毎日のように通いました。三度に一度は、娘を連れて行きましたが、しまいには娘の方で、飽きてしまってついて来ないのを、結句仕合せに思いました。そんなに毎日通う上に、染之助が舞台に出る時間に定《き》まって這入《はい》って行き、染之助の出る幕が済んでしまうと、サッサと帰って来るのですから、到頭芝居の中でも、評判になってしまったのです。あの女客は、成駒《なりこま》屋(それは染之助の屋号です)に気があるのだと、評判しているらしいのです。そう云う噂が立つに従って、舞台の上の染之助がじっと私の方を見詰め始めたのです。私は舞台の染之助から見詰められる事は、三浦之介なり、勝頼なり、勘平なり、義経なり、昔の美しい人達から、見詰められるような気がして、少しも悪い気持はしないのです。その中《うち》に段々染之助の見詰め方が烈《はげ》しくなるのです。ただ、あの女は『俺のひいき客だから、見てやれ』と云う位ではなさそうなのです。日が経《た》つにつれて、染之助の私を見詰めている眼付が、火のように燃えて来るのです。私は意外に思わずにはいられませんでした。そうして、私と染之助とは、舞台の上と下とで、始終じっと見詰め合いました。両方で見詰め合いました。私の見詰めているのは、染之助ではなくて、三浦之介とか重次郎などと云う昔のまぼろしの人間だったのですが、染之助はそうは思わなかったらしいのです。
ある日の事、私が何気なく見物していますと、一人の出方《でかた》が、それはそれは見事なお菓子、今のような餅《もち》菓子ではなく、手の入った干菓子の折に入ったのを持って来て、
『これは、染之助親方からのお届物です』と云うのです。私はそれを聞いた時、舞台の上の美しい斎世宮[#「斎世宮」に傍点]――その時は、菅原伝授手習鑑《すがわらでんじゅてならいかがみ》が芸題で、染之助は斎世宮《ときよのみや》になっていたのです――のまぼろしが消えてしまってその代りにあの馬道で逢った蒼黒い、頬のすぼんだ小男の面影が、アリアリと頭の中に浮んだのです。その瞬間、私は居たたまらないような不快を感じて、幕が閉ると、逃げるように小屋を出ました。無論、その干菓子などには、見向きもしませんでしたよ。
そんな事があってから、半月ばかりの間は守田座の木戸を潜《くぐ》らなかったよ、又その中に何となく染之助の舞台姿が恋しくなって来るのですよ。何でもその年の盆興業でした。馬琴《ばきん》の八犬伝を守田座の座附作者が脚色したのが大変な評判で、染之助の犬塚信乃《いぬづかしの》の芳流閣の立ち廻りが、大変よいと云う人の噂でありましたので、私はまた堪らないような懐しさに責められて、守田座の木戸を潜ったのでしたよ。平土間のいつもの場所に坐っていると信乃になった染之助が、直ぐ私を見付けてしまいました。それは、長い間母に別れていた幼児が、久し振りに恋しい母を見付けたような、物狂わしいような、それかと云って、直ぐにも涙が、ほとびそうな不思議な眼付でありました。私は半月も来なかったことが、染之助に対して、何となく済まないように思った位でした。染之助の信乃は、相手の犬飼現八《いぬかいげんぱち》と、烈しい立ち廻りをしながら、隙《すき》のあるごとに私の方へ、燃ゆるような流瞥《ながしめ》を送っているのですよ。実際の染之助から、こんなに度々《たびたび》、見詰められては、一分も座に居られなかったに違いない私も染之助が信乃になっているばっかりに、何だか信乃の恋人の浜路《はまじ》にでもなったように、信乃から見詰められる事が胸がわくわくする程嬉しかったのですよ。私も、信乃から見詰められる度に、じっと見返したり、時にはニッコリと笑って見せたり、恋人から見詰められたと同じように、うっとりとなっていたのです。
やがて、幕が下ってから、手水《ちょうず》を使いに廊下へ出ると、気の付かない間に、私を追い
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング