かけて来たらしく私の用をしていた出方が、
『もし奥様、ちょっと』と云うじゃありませんか。元来私は後家暮しはしていたものの、髪を切らないばかりでなく、勝山《かつやま》に結ったり文金の高島田に結ったりしている上、それで芝居に出這入《ではいり》するようになってからは、随分意気な身装《みなり》をしていたから町家の奥様とも見えれば、旗本のお妾《めかけ》さんのようにも見えたのでしょうよ。私が、
『何か用かい』と立ち止って聞くと、出方は声を低めながら、
『あの染之助さんが、是非|一寸《ちょっと》奥さんにお目にかかりたいと云うのですが、……』と、モジモジ揉手《もみで》をしながら云うのでした。もし、その時、出方が『あの犬塚信乃さんが』とでも云ったら、私は二つ返事で会いに行ったかも、知れなかったのだけれど、染之助と云うと、直ぐ馬道であった色の蒼黒い小男の顔が、アリアリと眼の前に浮んで来て、逢う気はしなかったのですよ。私は、可なり冷淡に、
『何の御用か知りませんが、御免を蒙《こうむ》りたいと云っておくれでないか』と、云いました、舞台姿はあんなに私の心を囚《とら》えていながら、役者その人は恋しいとも何ともないのでした。出方は、私の顔を見て呆気《あっけ》に取られていたようですが、そのままスゴスゴと行ってしまいました。
それからも、私は狂言の変り目毎に、三四度は欠かさずに、見物していました。見物する毎に、染之助が、私を見詰める瞳《ひとみ》が益々《ますます》熱して来るのに気が付きました。余り染之助が私を見るので、私の傍に坐っている女客達が私に可なり烈しい嫉妬《しっと》を、見せる程になりました。が、私と染之助とは、一度も逢ったことはないのです。染之助の方でも、私が彼の言伝をきっぱりと断ってから、私の心が測りかねたものと見えて、もう少しも手出しをすることはありませんでした。が、私は染之助こそ、嫌《きら》っていたが、染之助の扮した芝居の中の若い美しい人達が私を見詰める時には、恋人に見詰められたような嬉しさを感じて、じっと見詰めかえしていたのでした。
丁度私が、二十六の年の十月でした。染之助の居る一座は、十月興行をお名残《なご》りに上方へ帰って、十一月の顔見世《かおみせ》狂言からは、八代目団十郎の一座が懸《かか》ると噂が立ちました。私は、二年近くも、馴染《なじみ》を重ねた染之助の舞台に、別れねばならぬかと思うと、今まで自分の眼の前にあった華《はな》やかなまぼろし[#「まぼろし」に傍点]が、一度に奪い去られるような淋しさを感じました。が、その噂は、時が経つに連れて本当だと云うことが分りました。
私は、お名残だと思ったものですから、その興行は、二日|隔《お》き位に足|繁《しげ》く通いました。その時の狂言は、義経千本桜《よしつねせんぼんざくら》で、染之助はすし屋の場で、弥助――実は平維盛《たいらのこれもり》卿になっていました。私は、あの召使に身を窶《やつ》しながらも、溢《あふ》れるような品位を持った維盛卿の姿を、どれほど懐しく見守ったことでしょう。私は、維盛卿に恋をするすし屋の娘をどれほど、羨《うらやま》しく思ったでしょう。しかも、私はこの維盛卿が、私の眼に写る染之助の最後の姿だと思うと、更に懐しさが胸に一杯になるのでした。
ところが、この狂言が段々千秋楽に近づく頃でした。染之助の舞台姿に別れる私の悲しさが、段々私の小さい胸に、ひしひしと堪《こた》えて来る頃でした。私がある日、すし屋の幕が終ると、支度もそこそこに帰りかけると少しも顔馴染のない役者の男衆らしい男が、私を追っかけて来て、
『染之助親方が、これは御ひいきに預りましたお礼のしるしに、差上げる寸志でございますから、まげてお受納下さいますようと申しておりました』と、云いながら、紫縮緬《むらさきちりめん》の小さい袱紗包《ふくさづつみ》を出すのでした。染之助と云う役者には、少しも興味のない筈《はず》の私も、やっぱり染之助の舞台に、名残が深く惜しまれたためでしょう。無言で黙礼しながら、その袱紗包を貰《もら》いました。何か染之助の紋の入った配り物だろう位に、思っていたものです。が、家へ帰って来て、開けますと、中から出たのは、思いがけなく一通の手紙でした。それには、役者とは思われない程の達筆でこまごまとかいた長い文句がありました。もうたしかな事は忘れてしまったが、何でもこのような意味の事が書いてあったのでした。
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過ぐる二年あまりの年月の間に、貴女《あなた》様はその美しい二つのお眸《ひとみ》で、私を悩み殺しにしようとなさいました。貴女は私を恋していて下さるのでもなければ、それかと云って憎んでおられるのでもない。ただ長い間、私を弄《もてあそ》んでおられたとより外には、考えようもありません。初め、
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