のでした。祖母は、間もなくその娘の家に、引き取られて其処《そこ》で幸福な晩年を送りました。孫達を心から愛しながら、又孫達に心から愛されながら。
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私が妻の祖母を知ったのは、無論妻と結婚してからであります。その時は、祖母は七十を越えていましたが、後室様と云っても、恥しくないような品位と挙動とを持った人でした。私の妻が彼女の一番末の孫に当っていましたから、彼女の愛情は、当時私の妻が独占していると云う形がありました。従って、三日にあげず、私達の新家庭を尋ねて来ました。美しい容貌《ようぼう》を持ちながら十八の年から後家を通した人だけあって、気の勝った男のように、ハキハキ物を云う人でありました。
何時《いつ》も、車の音が門の前にしたかと思うと、彼女の華《はな》やかな、年齢よりは三四十も若いような声がしまして、
「又年寄がお邪魔に来ましたよ。若い者同志だと、時々|喧嘩《けんか》などを始めるものだから」などと、その年齢には丸きり似合わないような、気さく[#「さく」に傍点]な、年寄にしては蓮葉《はすっぱ》な挨拶《あいさつ》をしながら、どしどし上って来るのでありました。私は、祖母を人格的にも好きだった上に、江戸時代、殊《こと》に文化文政以後の頽廃《たいはい》し始めた江戸文明の研究が、大好きで、その時代を背景として、いい歴史小説を書こうと思っていた私は、その時代を眼で見|身体《からだ》で暮して来た祖母の口から、その時代の人情や風俗や、色々な階級の、色々な生活の話を聞くことも、非常な興味を持ちました。祖母もまた、自分の昔話をそれほど熱心に聞く者があるので、自分も話すことに興味を覚えたとみえて、色々面白い昔話をしてくれました。江戸の十八大通《じゅうはちだいつう》の話だとか、天保年度の水野|越前守《えちぜんのかみ》の改革だとか、浅草の猿若町《さるわかちょう》の芝居の話だとか、昔の浅草観音の繁昌《はんじょう》だとか、両国の広小路に出た奇抜な見世物の話だとか、町人の家庭の年中行事だとか、色々物の本などでは、とても見付かりそうもない精細な話が、可なりハキハキした口調で、祖母の口から話されました。私が熱心に聞く上に、時々はノートに取ったりしたものですから、祖母は大変私を信頼し、私に好意を持つようになりました。妻の姉妹は三人もあって、銘々東京で家庭を持っているのですが、彼等の共通の祖母が、私の家へばかり足|繁《しげ》く来るものですからおしまいには、
『貴方《あなた》の家だけで、お祖母さんを独占してはいやよ。お祖母さんもお祖母さんだ、青山の家へばかり行って』などと、妻の姉妹が、不平を滾《こぼ》すほどでありました。
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もう、その頃は、祖母の話も、段々種が尽きかけて来た頃でありました。ある日私が、
「何か面白いお話はありませんでしょうか。何か少し変った、お祖母さん御自身がお会いなさったような出来ごとで」と、少し手を換えて話をねだりますと、祖母は少し考えていましたが、「そうだね。私は、私自身の事で誰にも話さないことがただ一つあるんだよ。一生涯誰にも云うまいと思っていたことだが……」と、祖母は、一寸《ちょっと》そのいかにも均斉の取れた顔を赤めましたが、「そうだね、懺悔《ざんげ》の積りでそっと話そうかね。綾さん(私の妻の名です)なんかの前では一寸話されない話だが丁度貴君一人だから」と、云いながら、祖母は次のような話を始めました。私は、その話を次ぎに書こうと思いますが、四五年前の話ですから、祖母の用いた口調までを、ソックリ伝える訳には行きません。そのお積りで聞いて下さい。
「私は、綾さん達のお祖父さん(それは彼女の夫の前島宗兵衛です)に懲り懲りしたので、もう一生男は持つまいと決心したのです。そして、その決心をやっと押し通して来たが、ただ一度だけ危くその覚悟を破りかけたことがあるのです。恥を云わねば分らないが……」と祖母は一寸云い憎くそうにしましたが、
「自慢じゃないけれど私は、子供を連れた出戻りであったけれども、お嫁さんの口は後から後から断りきれないほどあったのですよ。三千石取の旗本の若様で、再婚でも苦しくない、子供も邸《やしき》に引取っても、差支《さしつか》えがないと云うような執心な方もあったけれど、私の覚悟はビクとも動かなかったのです。娘が、大きくなるまでは、世間とも余り交際しない積りで、向島へ若隠居をしてしまったのです。その話は幾度もしたけれど――向島へ行って何年目だろう、私が何でも二十四五になった頃だろう。御維新になろうと云う直《す》ぐ前でしたろうか。私は、自分の暮しが、何となく味気ないような淋《さび》しいように思い始めて来たのです。それで、やっぱり家にばかり、引込んでいるから、退屈をするのだろうと思って、その頃五ツか六ツにな
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