。それに、先妻の子が男女取り交ぜて、四人もあったのですから、祖母の結婚生活が幸福でなかったのは勿論《もちろん》であります。その上、宗兵衛と云う男が、大分限者の癖に、利慾一点張の男だったらしいから、本当の愛情を祖母に注がなかったのも、尤もであります。その上、借金の抵当と云ったような形ですから、金で自由にしたのだと云う肚《はら》がありますから、美しい玩具《おもちゃ》か何かのように愛する代りに弄《もてあそ》び苛《さいな》んだのに過ぎませんでした。その頃まだ十七の真珠のように、清浄な祖母の胸に、異性の柔《やさ》しい愛情の代りに、異性の醜い圧迫や怖《おそろ》しい慾情などが、マザマザと、刻み付けられた訳でした。が、幸か不幸か、結婚した翌年宗兵衛は安政五年のコロリ大流行(今で云う虎列剌《コレラ》)で、不意に死んでしまいました。
 その時、祖母は私の妻の母を懐胎していたのです。何しろ、先妻の子は四人――然《しか》もその長男は二十五にもなっていたそうです――もある所に、宗兵衛の死後、祖母が止《とど》まっていると云うことは、まだ年の若い祖母の為にも、先方の為にも思わしくないと云うので、祖母が身が二つになると同時に、生れた子供を連れて離縁になることになりました。宗兵衛の後嗣と云うのが、非常に物の判《わか》った人と見え、子供の養育料として一万両と云う可なりな金額を頒《わ》けてくれたそうです。祖母は、その金を貰って子供を連れて、一旦里に帰って来ましたが、子供を預けて再縁をせよと云う親の勧めや又外から降るように来る縁談を斥《しりぞ》けて、娘を連れたまま、向島《むこうじま》へ別居することになりました。そして、心置きのない夫婦者の召使いを相手にして、それ以来、ズーッと独身で暮して来ました。恐らく最初の結婚で、男と云うものの醜くさを散々|味《あじわ》わされた為、それが又純真な傷《きずつ》き易《やす》い娘時代で一段と堪《こた》えたと見え、癒《いや》しがたい男|嫌《ぎら》いになってしまったのでしょう。祖母は向島の小さい穏かな住居で、維新の革命も彰義隊の戦争も、凡《すべ》て対岸の火事として安穏《あんのん》に過して来ました。そして明治十二三年頃に、その一人娘をその頃羽振の好かった太政官の役人の一人である、私の妻の父に嫁《とつ》がせたのです。祖母の結婚が不幸であったのと反対に、その娘の結婚は可なり祝福されたも
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