思うのです。
 基督教の教義を真実とし、坂下鶴吉の信仰を真実のものだとする時は、坂下鶴吉は、明かに天国へ行って居るのに違いありません。が、坂下鶴吉は天国へ行ったとして、彼の被害者は何処へ行ったでしょう。
 私の義兄にしろ、姉にしろ、平常から何の信仰も持って居ません。また縦令《たとえ》、如何なる信仰を持って居たにしろ、咄嗟に生命を奪われた、死際の刹那を苦悶と忿怒との思いで魂を擾《みだ》したものが極楽なり天国なりへ行かれようとは、思われません。よくは、知りませんが、基督教では死際の懺悔《ざんげ》を、非常に大切なものだとされて居るそうですが、姉夫婦の如く虐殺されては懺悔どころか、後生を願う心も神を求める心も影だに射さなかったと思います。殺される刹那の心は、修羅の心です。地獄の思《おもい》です。もし基督教の教義が本当なれば、地獄の底に陥ちるよりほかはなかったと思います。姉夫婦ばかりではありますまい。彼の為に殺された他の七人の人達も、その人達の信仰はとも角、死際の苦悩の為に天国なり、極楽なりへは、決して行かれなかったと思います。然るに、彼等の生命を奪ったばかりでなく、その魂さえ地獄へ墜《おと》し
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