ふみ、後から精三。
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ふみ いいじゃありませんか。さっさとついてらっしゃい。此方《こちら》からの方がお部屋に近いのよ、あら、いらっしゃい、叔父さま。
章介 ああお帰り、お花見かね。
ふみ フェルマー先生のレッスンに行って来たんですよ。お花見なんて嫌い。埃っぽくってあれじゃお花見だか埃見だかわかりゃしない。
精三 今日は。
章介 やあ、これはこれは。
ふみ 精三さんの妹さんもフェルマー先生のところへ来てらっしゃるんです。あたしあすこへ紹介してもらっていいことしたと思いますわ。親切でお稽古が熱心で……。
精三 そうなんです。音楽家というものはむら気で気むずかしいものですが、あの人にはそういうところがありません。家へなんかよく、遊びに来られますが、まるで親類かなんかのように気がるで話し易いんです。
章介 すると精三君は料理にも精通してるし音楽にも趣味が深いというわけですな。
精三 いやあ。私のはただ、聞くというだけで一向何もわかりゃしないんです。しかし、音楽がわかるとかわからんとかいうことは、仲々むつかしいことで、本人がわかったつもりでいても本当にわかってるんだかわからないんだか、誰にもわかることじゃありませんから。
ふみ 何いってらっしゃるの。あなたのいってることの方がよっぽどわからないじゃありませんか。
精三 や、どうも。ははは。(と縁へ坐ろうとする)
ふみ あら、駄目よ、そんなところへ坐っておしまいになっちゃ。私のお手伝して下さるんじゃなかったの。
精三 あ、そうだっけ。
ふみ 後でけいちゃん、手があいたらお部屋まで来て頂戴。バケツと雑巾《ぞうきん》持ってね。押入れの虫干しするんだから。
けい はい。
ふみ じゃ叔父さま又後で。精三さん。
精三 う、うん。じゃ、御免なさい。(二人去る)
章介 (二人を見送って)人間という奴は、何かやると必ず間違いをしないではいられないらしいな。まるで間違いをするために何かするみたいだ。
けい あの、精三さまは、総子お嬢さまの旦那さまになられる方じゃないのではございますか。
章介 そんなことは俺は知らん、当人達だって、恐らくわかっておらんことだ。しかしこの頃、ちょいちょいふみ子とつながって歩いているところを見るとどうかね。
けい ふみ子お嬢さまも一体どういうおつもりでございましょう。
章介 ありふれた話さ。女にとって、ちやほやしてくれる男はいわば勲章みたいなものさ。多ければ多いほどいいんで邪魔にはならんもんだからね、まあお前なんかもよく気をつけるのだな。(入ってゆく、けい呆れたような顔で見送っている。背後から栄二)
栄二 おい、なにをぽかんとしてるんだい。
けい いえ、何にも。
栄二 その桶どうするんだ。
けい 洗って漬物をするのでございます。
栄二 僕、洗ってやろうか。
けい よろしゅうございます。
栄二 遠慮するなよ。
けい 箍《たが》が外れてバラバラになっても困りますもの。
栄二 大丈夫だよ。
けい 御本人がお受け合いになっても駄目でございます。
栄二 いやに信用がないんだな。
けい 物置の棚を作っていただいて懲《こ》りていますから。
栄二 へえ、どういうわけだい? あれ壊れやしないだろう、そうすぐには。
けい 壊れはしませんけど、お庭の塀の板をはがしておいでになったそうでございますね。
栄二 何だ、知ってるのか。
けい 今朝、大工さんが来て塀を直して居りましたわ。
栄二 あすこは板がない方が通りへ出るのに近いんだがな。
けい 此方の水溜りを埋める土を持ってくるのに向うへ水溜りを掘ってるようなものですって、手数が一遍ですむようにこの次から大工を呼びなさいって奥さまが……。
栄二 お前、余計なことを告口《つげぐち》するからだよ。
けい 私じゃございませんわ。
栄二 お咲の奴だな。後で水ぶっかけてやるから。
けい あら、そんなことなすったらそれこそ私、恨まれてしまいますわ。(袂をさぐる)
栄二 (けいのたすきを見つけほうってやる)それより又船見に連れてってやろうか。
けい 結構でございますわ。
栄二 なんだい。今日はいやに用心深いんだな。
けい だって、あなたさまのは、私をだしにして御自分が港へお行きになりたいのでございましょう。向うへ行ったら私なんかおっぽり出して何処かへ行っておしまいになるんですもの。
栄二 お前だって随分、珍しがってデッキを走ったり転んだりしたじゃないか、船員達が笑ってたぜ。
けい あら。あなたのように船底へもぐり込んで釜焚《かまた》きに怒鳴られたりはしませんわ。
栄二 止そうや。お前と僕だけしかしらないことだし、あんまり自慢になる話じゃないからね。
けい あの船が海を渡って清国の港迄ゆくなんて、私なん
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