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しず ああ、暖い。ここは随分よく日のあたることね。
けい 今日は奥さま、ご加減がよろしいようでございますね。
しず ええ、店のことも気になるし、起きてみましたよ。どう、家の用事が多くて辛《つら》くない?
けい いいえ、もっとどんどん御用をお出し下すった方がいいくらいですわ。私なんだか遊んでいるようで勿体《もったい》ないと思っています。
しず そんなことはありませんよ。家の方こそ、お前が来てくれてから掃除はゆきとどく、用はどんどん片づく、どんなに喜んでいるかしれないのですよ。でも、あまり無理をしないで辛い時は遠慮なくそういって休みなさい。
けい 辛いなんて、そんなこと決して。私、時々こんな暮しって夢じゃないかと思うくらいでございますわ。朝、目がさめると、ああやっぱりほんとでよかったと思うんです。
しず ふふふ。誰も彼もがお前のように遠慮勝ちの望みを持っていたら、世の中はどんなに穏やかに美しくなるでしょうね。
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章介。
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章介 やあ、こっちでしたか。
しず いらっしゃい。
けい いらっしゃいまし。
章介 ああ。すまんがね、冷たい水を一杯くれんかね。
けい はい。(ゆこうとする)
章介 おいおい、ちょっと。
けい はい。
章介 (つくづくとみて)ははあ。これがあの、いつかの晩、鼠の尻っぽみたいな下げ髪で藁草履《わらぞうり》をつっかけて迷いこんできたしらみくさい女の子かね。
しず なんですよ、そんな……。
章介 行きなさい行きなさい。(けい去る)どうも、子供が女になるというのは毛虫が蝶々になるようなものだ。造化の妙といえば妙|此上《このうえ》ないが、考えてみると滑稽なものですね。
しず そんなつまらないこといって、旅行の手続はすんだのですか。
章介 ええ万事済みました。
しず 会社の方も、いつも休ませてすみませんね。
章介 なに、自慢じゃないが私なんぞ会社じゃ、いてもいなくても大した変りはないんです。しかし、そんなこととは別に、私がこの家の商売に関係するのは今度が最後ということにしていただきたいんですがね。
しず 又その話ですか。
章介 又その話ですよ。御退屈でしょうがね。
しず でもまァもう少し私を助けてくれてもいいじゃありませんか。私がこんなに有難く思っているんだから。
章介 いやあ、私は人を助けたり人に有難く思われたりするのは一向好きじゃないんです。
しず ま、そう言わないで、私もこうして病身だし、それに何しろ跡取りがまだ若いし。
章介 私が伸ちゃんの年にはもう親父の代りに問屋通いをしていましたよ。
しず あなたの時代と今とは、時代が違いますから。
章介 姉さん、兄さんが伸太郎を外国語学校へ入れたのは一体いいことだったのですかね。あなたには伸ちゃんに家の仕事を、やらせてゆく気が一体あるんですか。
しず ……あの子は、頭もいいし、気立もやさしいし、親思いの子です。けれど……商売にむいているかどうかということになると、私にははっきりわからないのですよ。
章介 むいているかどうかじゃありません。やらせるつもりがあなたにあるかどうかですよ。
しず そりゃ、伸太郎は長男ですし、当然家の仕事を継いでもらわなくちゃならないと私は思っています。けれどあの身体とあの気性で、抜け目のない清国人を相手のかけ合いができるかどうか……。ま、今のところ古い店のものもいないと思うとつい……。
章介 いけませんよ。やらせるつもりなら思いきってやらせなさい。仕事が人間を鍛えてくれるでしょう。若《も》し仕事に負けて途中でへたばるようなら、それはそれで仕方がありません。
しず まあ、お前は随分冷めたいことをいいますね。
章介 伸太郎をお呼びなさい。私から申渡してやりましょう。
しず そうですね。いずれ一度はしなくちゃならない話です。それじゃ、もう出かけたかどうかちょっとみてきます。(しず去る)
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間。けい。
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けい 遅くなりました。
章介 あ、どうも……。(受取って呑む)うまい。
けい あのう。
章介 ん?
けい 御旅行は、明日お発《た》ちになるんでございますか。
章介 いや、明日はちょっと無理だ。明後日だな。どうして?
けい お洗濯物を。
章介 あ、そうか、すまんな、たのむよ。
けい 明日の朝でもお届けしましょうか。
章介 そうだな。いや、明日の晩もう一度来るからその時もらってゆこう。
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賑やかな笑い声がして庭から
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