ける様にして出たきりだし、結婚する時だって前もってお前に一言了解を得たと言うわけでもなし、一緒に住んでいる俺でさえ事後承諾の形で、一時は憤慨したくらいだ。お前にしてみれば一人娘の婿だからいろいろ希望もあった事だろう計画もあった事だろう、店の仕事を継いで行く者の事も考えただろうし。
けい 私も一時はいろいろ考えた事もございますが、今頃までそんな事をおぼえては居りません。総《すべ》ての事が斯《こ》うなったのも、こうなるより外に仕方がなかったのだろうと思っています。商売の事も今度の戦争のおさまり次第でどうなるか分ったものじゃありません。結局白紙にもどって第一歩から出なおさなくちゃならないとすれば、後を継ぐ者などなかった方が却って良かったのかもしれないと思っています。
伸太郎 どうもお前の諦めのいいのには驚かされる。
けい ……、そのお蔭で廻りの人からすっかり捨てられてしまいました。
伸太郎 俺達俗人にとってはえらすぎるんだなお前は。
けい そんなひどい。
伸太郎 (真面目くさって)いや。ほんとだよ。うん。
けい (噴き出してしまって)まあ、真面目くさって何でしょう。
伸太郎 (ますます真面目くさって)なに笑う事はないさ、俺はほんとにそう思っているんだ。
けい もう、よろしゅうございます。知栄の事は確かに私の方で致します。何だかだと言うよりこの家も広いのですからあの子さえ良ければ、此方へ越して来たらどうでしょう。
伸太郎 うん、いっそそうした方がいろんな面倒が却って少ないかも知れないな。俺の方からもそうする様にすすめてみよう。
けい 私も今夜にでも一寸、行ってみます。
伸太郎 ああ、それでやれやれだ。何だか大変な問題の様な気がしていたが話してみるとそうでもないのかなあ、変な気持ちだな。
けい 一役おすませになったのですからね。
伸太郎 ちょいと高い閾《しきい》だったが、娘のお蔭で越えさせられてしまった。俺もこれでやっぱり親爺《おやじ》の端っくれかな。
けい 私達も、こんな話をするようになったのですから、もう年をとったのですね。
伸太郎 うん、俺などはもう。(とちょっと頭をみせて)白髪《しらが》が出て来た。
けい (微笑)でも、まだ白髪をお出しになる年じゃありませんでしょう。
伸太郎 いや、ほんとだよ。以前は時々知栄が抜いてくれたんだがね。この頃じゃもう、二本や三本ずつ、抜い
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