伸太郎 ところで世話ついでと言っちゃ何だが、今日は一つ頼みがあるんだが。
けい なんでしょう改まって。
伸太郎 知栄のことなんだがね。
けい 知栄がどうか致しましたのですか。
伸太郎 今朝起きぬけに松永君がやって来て、とうとう来ましたって言うんだよ。
けい と言うと。
伸太郎 応召だよ。
けい でもあの人はもう少しで予備に入るくらいでしょう。
伸太郎 今来ているのは皆その辺らしい、三十七八と言ったところらしいんだよ。
けい それじゃあの子も大変ですね。此の間バスの窓から一寸姿を見ました。二人の子供を歩かせて何だかとても倖せそうに見えました。次の停留所で降りてみようかと思ったけれどやっぱり其のままにして帰りましたが。
伸太郎 ……。
けい 暮し向きの事や何かどうなんでしょうね。
伸太郎 うん、それなんだがね、俺も今までくわしい事は知らなかったんだが、ああ言う音楽家などと言うものは別に何処の会社へきまって出勤すると言う事がないので定収入と言うものはないらしいんだね。ふだんは仕事をしさえすれば金が入るものだから、何とも思わなかったらしいが、こんな場合になってみると後に残る者の事がひどく心配になって来たんだ。と言って相談を掛けられても俺の方でも今の処《ところ》あの家族をどうしてやれると言う程のゆとりがあるわけではなし、……そこでお前に相談に来たわけなんだが……。
けい ……。
伸太郎 俺も今更、お前にこんな事が相談出来た義理でもないのだが、外に大した名案もなしそれかと言って此の先何時まで続くか分らない戦争に、他人の力を当にするわけにもゆかないので……。
けい いいえそんな、相談出来た義理だの何だの。堤のお家はあなたのお家でございます。あなたがなさろうとお思いになる事に私はこれまで一度だって反対した事はございませんし、する理由もありませんわ。
伸太郎 確かにそうだ。お前の寛大なのをよい事にして俺はこれまで度々、当てにしてはならない時にお前を当てにしてすませて来たものだ。だからと言って俺が恥も面目も知らない人間だとは、まだ思っていないのだ。
けい 私は唯、松永さんがなぜ娘の事ならわたしに言って下さらなかったのかとそれを淋しく思ったのです。
伸太郎 そりゃ松永君だって事情を知らないわけじゃないんだから、お前に直接は言いにくかったんだろう。知栄は家を出る時は、ああして後足で砂をか
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