もしれません。だから、しかし、明瞭《はっきり》しておかないと、後でみんなが困ることですから。(間)万一です、万一ですね、あなたがあさ子さんを……。
収 若し、そうだったら、どうなさるんです?
弘 困りますね。
収 困ったって仕方がない。
弘 しかし、やっぱり困るより他、仕方が無いでしょう。私だってあの人を愛しています。
収 そうし始めたところでしょう。
弘 それは、しかし、五年でも、五分間でも、時間の問題ではないと思うけれど。
収 そりゃ、そうですね。全く。
弘 しかし私は、あなたも好きです。
収 止しましょう、僕は年上の人に同情されるのは好まないのです。殊にその理由の無い場合。
弘 いや、まだそこ迄は行っていない。同情されるのは私かもしれない、私は……。
[#ここから3字下げ]
あさ子。
[#ここで字下げ終わり]
あさ子 (飲物を卓の上に置いて)どうぞ。
収 変に神妙だな。
あさ子 接待係り。
弘 いいものが出来てるでしょう、その腕で。
収 砂糖と食塩を間違えたりなんかして。
あさ子 大丈夫、みんな母さんがするんだから。
収 なんだ、運ぶだけか。
弘 それなら運搬係りの方だ。いいからあちらへ行きなさい。うちの妹なんかも始終やられてます。
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あさ子、笑い笑い去る。
間。
[#ここで字下げ終わり]
弘 万事あの調子ですね。
収 動かざること山の如《ごと》しって言う形です。ところが、あの顔がだんだん恐くなるのですがね。
弘 みてると偉いものだと言う気がするんでしょう、きっと。
収 も少しすると、わけがわからなくなります。独り相撲ですからね。殴りつけるより他に逃げ道は無いのです。
弘 みる人にもよりますね、それは、あなたの神経ですよ、きっと。
収 あなたは?
弘 私は、ありふれた医学士ですよ。
収 あなたは、あの人の御主人には丁度いい人のようです。健康で卒直[#底本のママ]で、いい常識を持ってらっしゃる。それに身分も丁度いい。
弘 真面目にお話、して下さい。成可《なるべ》く静かにしましょう。こんなことはあの人には知らせたくないと思いますからね。あなただって異存はないでしょう。あの人をびっくりさせるだけの話ですから。
収 僕はちっとも冗談なんか言ってやしませんよ。こうなるってことは、始《はじめ》っからわかってたんです、何かしら、僕にはね。なんだかそれを待ってたような気もするんです。
弘 そりゃ。どう言う意味です。
収 僕はあんまり長い間、あのひとを眺め過ぎてきました。此の頃じゃ、少しやり切れない気がするんです。そんなことをしてるのがです。でも、今更どうすることも出来やしない。今急に僕が来なくなったりしたら、きっとこの家の人が変に思いますからね。だからと言って、僕は今んなって僕を愛して下さいなんて言えませんよ。笑われるかもしれませんからね、長い間他人に見られないで他人のすることを見ていた罰でしょう。
弘 私には、どうもよくわからない。なぜ、あなたは……。
収 いや、僕の考えは多分間違ってるでしょう。それはわかっています。まともな考え方じゃないってことはわかってく[#底本のママ。]るんだけど、やっぱりそんな気がするんです。どうにも仕様の無いことです。あの人を喰った顔をみてると、僕は呆《あ》っ気《け》にとられてしまいます。あまりみごとなとぼけ顔にぼんやりして了うのです。手も足も出なくなるって言う言葉がありますが、こんなんだと思いますね。だから、誰か、あなたでもいい、そんなひとが不意に現れて、どんどん物事を処理して呉れたら……。
弘 あなたは少し、自分勝手を言ってやしませんか。あなたがぼんやりするのは自由です。しかし、あさ子さんの方はどうでしょう。
収 どうって何です?
弘 そうですねえ、あなたがただ、呆っ気に取られているんじゃ、あのひと、失望しやしませんか? それは、つまり、どう言うことかって言うと。
収 それですか。それなら大丈夫です。僕は完全に無視ですよ。こんな服を着てますからね。
弘 ?
収 眼中にはないのです、あの人の。僕は失恋ですよ。(笑う)
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間。
[#ここで字下げ終わり]
弘 そりゃ、そうかもしれない、あの人にかかったら、誰だってそうでしょう。私だって、多分……。
収 しかし、悲しいことにその態度も、すっかり僕の気に入りました。堂々と、まるで風のように僕を失恋させましたよ。
弘 そうなりますね。それを押し切ることを、あなたの自尊心が許さないとすれば。
収 自尊心だと仰言るんですか。そうみて下さるなら、それはあなたの御好意だと思っておきます。あなたとお話していて、ほんとに僕は恥しくなりましたよ。あなたもやはり、みんなが持っていないものを持ってられるようです。僕は顧みて自分を恥しいとは思いましたが、あの人のこれから先のことを考えてみて、非常に、なんだか楽しい気持がしてきました。
弘 あなたは、私のことを前から御存じだったのですか?
収 あなたのお出でになる少し前から。
弘 私があのひとと結婚したがっていると言うことも?
収 ええ。それからあのひとの母さんがそうさせたがっていると言うことも。
弘 ちょっと待って下さい。それは、また別の問題です。
収 今日、少くとも今日はそう心を決めている筈です。
弘 じゃ、あなたの気持は、もう動かないのですね。
収 ええ。
弘 若し、私がこのまま黙って帰って、二度と此処へやって来ないとしたら。
収 そしたら、みんなが不幸になるだけです、僕も含めて。何にもならないことです。誰も喜ばない。
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あさ子、少し遅れて、真紀。
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あさ子 何の話、面白そうね。
収 あなたの悪口さ。言われた仕返しに。
あさ子 嘘でしょう。
収 (弘に)そうですねえ。
弘 ほんとですよ。
あさ子 ううん、あなたはあたしの悪口は言わないわ。
収 あれです。あんな気でいるんだから。
真紀 さあ、御飯にしましょう。一緒に来て下さい。何も無いんですけど。
収 も少し、此処にいましょう。静かでいい。
弘 ええ、そうしましょう。まるで街ん中でないようですね。それに日が落ちたので涼しくなりましたよ。
あさ子 母さん、もう葭戸《よしど》を入れなくちゃ、駄目ね。
真紀 そうね。梅雨があがると、うんと暑くなるよ、きっと。
弘 入梅はいつでした?
真紀 十二日。
収 あがるのはいつです。
真紀 梅雨三十日って言うから。
あさ子 雷がなる迄よ。
真紀 此の頃は、雷が鳴ったって、なかなかあがりゃしない。
収 いろんなことが変りますね。あさ子さん、ピアノでも弾かないか。聴きたいんだって仰言ってたよ。
弘 ええ、是非一つ。
あさ子 駄目、あたし。
収 駄目だから聴きたいんだろう。巧いのなら他所《よそ》で聴けるよ。
あさ子 自分がさきに弾けばいいでしょう。ホ短調が楽譜なしで弾けるんだから。
収 僕の後では尚更《なおさら》弾けなくなるよ。さあ愚図々々言ってないで。
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真紀、笑い笑い拍手の形。
あさ子、真紀を打つ真似。
真紀、大袈裟に逃げる。
それでも、あさ子はやっぱりピアノの蓋をあける。
[#ここで字下げ終わり]
真紀 (収に)ピアノの稽古を止すんだって?
収 ――。(笑っている)
真紀 止さなくって、いいんだろう。折角、母さんに頼んであげたんじゃないの。
収 ええ、もう止さなくってもいいんです。だけど、男がピアノって、可笑しいじゃありませんか。
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単調なソナティヌ。
三人ひっそり笑いながら聴いている。
めいめいがそれぞれの思いを追っていて、まるで聴いていないようででもある。
夕闇の色が濃い。
[#ここで字下げ終わり]
弘 (笑ったまま)奥さん、あなたは今日、(収を指さし)このひとに大変いけないことをなさいました、御存知ですか?
真紀 (之《これ》も笑ったまま)知っています。でもそうするより、他に仕方がなかったと思います。
収 (之も笑ったまま)わかってますよ。おばさん。あれはあれでよかった。大変よかった。
真紀 でも、あなたも悪かった。そうだろう。あなたも悪かったよ、ほんとに。
収 ほんとです。そのとおり。
真紀 何にも言わないでね、済んだことは。可哀想だから。
収 大丈夫ですよ、あのひとには責任の無いことです。
真紀 有難う。
収 僕は悪者じゃなかったでしょう。
弘 私には……どう言っていいのか……わからない。
収 何も仰言る必要はありませんよ。みんなが考えて、一番いいと思われる結果が自然に出て来たのですからね。(立上って)どら、僕もこれから、ひとつ体操でも始めようかな。(手を振ってみる)
あさ子 (ピアノを止めてふり返る)あら体操? 誰が体操をするの? 体操ってラジオ体操のこと?(ゆっくり眉を撫でる)あたしもしようかしらと思ってるの。
[#下げて地より2字あきで]――幕――
[#下げて地より2字あきで](雑誌掲載は『劇作』昭和九年十一月、初演は昭和十三年三月)
底本:「現代日本文學大系83 森本薫・木下順二・田中千禾夫・飯沢匡集」筑摩書房
1970(昭和45)年4月5日初版第1刷発行
初出:「劇作」発行所名
1934(昭和9)年11月号
入力:伊藤時也
校正:松永正敏
2002年3月11日公開
青空文庫作成ファイル:
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