うって法があるかい。
あさ子 今ね、今、あんたのことを言ってたの。
真紀 あさ子。
あさ子 母さんね。あんたの悪口言ってたのよ。だから慌《あわ》ててるの。(笑う)
真紀 嘘よ、あさ子がそう言ったの。
あさ子 あら、あたしじゃないわ。自分こそ。
収 どうも大変な所へ入って来たらしいなあ。逃げ出した方が無事かな。
あさ子 大丈夫よ。そんなにいけないことじゃないの。
収 どうだか。
真紀 ほんとに、どうだかしれやしない。(笑う)
収 (あさ子に)あなただね。悪口言ったのは。
あさ子 違うったら。
収 そうに違いない。わかってるさ。
あさ子 (睨む)まあ。
収 睨んだって恐くないよ。
真紀 (あさ子に)ほら、その次は。
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収、指先で眉を内から外へ撫でつけてみせる。
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真紀 駄目々々。たった今叱られたばかりよ。
収 へえ。それなら早くそ言って呉れるといいのに。大失敗だな。
あさ子 いいわよ。君とは今日はもう口をきかないから。
収 大変なことになったもんだなあ。(真紀に)ああ、忘れてた。おばさん、母からのことづかりものです。それでちょっと学校のかえりに。
真紀 あらそう。御苦労さま。何か……。
収 用じゃないんです。(包を出して)礼儀上|到来物《とうらいもの》ですって言うんだって、中味は「藤屋」の……。
あさ子 羊かん?
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収、真紀、「おや」と云う顔。
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真紀 (あさ子に)何か言って?
あさ子 (笑って)いいえ。
真紀 母さん、相変らずお忙がしい?
収 そう云ってますね。口癖です。
真紀 性分ね。此の頃ちっとも会わないので淋《さび》しくって仕様がない。ちっとは遊びに来るように云っといて下さいよ。
収 向うでも、そ言ってましたよ。あちらは閑人《ひまじん》だからって。
真紀 閑人? ひどい事言うね。家は商売があるから……何と言ってもあなたのお家の方がやっぱり閑よ。
収 そりゃ、そうですね。でもやっぱり。何《なん》か彼《かん》か言ってますよ。
あさ子 収さん。坐らないことに決めたの?
収 う……うん。僕もそう思ってるんだが、一向《いっこう》お許しが出ないし、それに場所も(あたりを見廻す)
真紀 御免々々。うっかり。(立ち上る)
収 よろしよろし。(ピアノの前に行き、その椅子を提《さ》げてくる)
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奥さん奥さん、と外でよぶ声。
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あさ子 母さん、よんでる。
真紀 ほら早速《さっそく》だ。収さん、ちょっと失礼。やっぱり忙しいでしょう。(去る)
収 (人形をみて)相変らずだな。
あさ子 楽譜持って帰ったでしょう、此の前の時。
収 そうそう。言わなかったかな。
あさ子 いけないひとよ。弾こうと思ったら無いんだもの。楽器が無いのに楽譜どうするの。
収 使い道は一つじゃないよ。あれ無しじゃ弾けないのかい? まだ。
あさ子 自分だってそうのくせに。
収 冗談だろう。
あさ子 弾ける?
収 ああ。
あさ子 ほんと?
収 あなたとは、少し違うね。
あさ子 まあ。
収 まあ、って何だ。
あさ子 だって、まあだわ。
収 おやおや。
あさ子 おやおやでもないわ。
収 まあ、なんだね。(二人笑う)
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真紀。
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真紀 あさ子、あなた分ってるんでしょう、小宮さんの風邪薬。
あさ子 アミノピリンを抜くのよ。
真紀 それだけじゃ、わかりゃしない。
あさ子 フェナセテン、一・五。ブロバリン、〇・五、ケンチャナ、〇・―。いいわ、あたしが慥えて来よう。あの人、何《ど》んな薬にでも中毒するんですって、あんなのもないわねえ。(去る)
真紀 (坐りながら)あれだけがあの人の取柄《とりえ》。
収 一つ、身についた取柄があれば、大したものじゃありませんか。僕みたようなのもいるんだから。
真紀 あなたはそうでもないらしい。
収 何故?
真紀 あさ子なんか、始終《しょっちゅう》讃《ほ》めてますよ。
収 あれは言えないんだ。悪口なんか、考えつかないんですよ。
真紀 悪口さえ一人前言えないってことになるじゃないの。
収 自慢してもいいと思うけれど……。
真紀 そうだろうか、どうして。
収 理由なく。いや、有りますよ、理由は。
真紀 好みの問題ね。
収 そうとばかりは言い切れないな。
真紀 他人事だからよ。あんたは。
収 まあ、そう言って言えないこともないけれど。
真紀 世間ひととおりの事をさ、あんまり知らなさすぎると思うの。それが……。
収 しかし、何処へ出してもそのままで押しとおせる世間知らずってのはねえ……。
真紀 ああ。
収 いいんですよ、そりゃ、素的《すてき》じゃありませんか。
真紀 そう言うと、あなたは知ってるように聞えるけれど。
収 知りません、僕は。
真紀 お話にならない、それじゃ。
収 おばさん知ってそうですね。
真紀 そうね、年のひらきだけは。
収 案外簡単なものなんだな、それじゃ。
真紀 莫迦《ばか》にするんじゃない。
収 どんなものです?
真紀 世間?
収 ええ。
真紀 世間は……
収 世間でしょう。
真紀 まあ(そうさ)。
収 苦しくって。
真紀 ふん。
収 悲しくって。
真紀 ふんふん。
収 醜くって。
真紀 ――。
収 下品で。
真紀 時々はいいこともあるさ。
収 いいこともね。それだけ?
真紀 まだまだあるねえ。追々《おいおい》分かる。
収 やっぱり、予備知識は要《い》りませんね。
真紀 追々って言うのは……。
収 要る時が来ればわかる、と言う意味でしょう?
真紀 その時が来てもわからないと言う人間は?
収 要らない人か、莫迦か、どちらかでしょう。
真紀 あさ子は莫迦の方なの?
収 前の方じゃないですか。
真紀 何もしらないでいていきなりひどい目に会わされたりすると、どうするかと思うの。そこんところよ、私の案じるのは。思い過ごしかしら、こんなこと。
収 それは悪者ですよ、そう言う奴は。(笑う)
真紀 随分いるじゃないの、そう言うのが。
収 そりゃ仕方がないな。それに悪者だとか悪運だとか言う奴は気を配ってる人ほどつかまり易いんじゃないんですか。
真紀 理屈を言ってるのよ、あなたは。
収 まあ、そんなに心配しなくっていいでしょう。そんな閑に、そろそろいいお婿さんでも探した方が実際的じゃないの、おばさん。
真紀 貰い手があればねえ。
収 ありますよ、いくらでも。おばさんの方で惜しがってるだけじゃないの。
真紀 お裁縫ひとつさせてもね、あたしが気をつけないで放っとくと、袖口迄縫いつめてしまうの。そんなのよ。
収 まさか。
真紀 と思うでしょ。嫁にやる。先様《さきさま》に厳しい御両親でもあれば、直ぐ出戻りだものね。そうなると笑い事じゃ済まない。
収 そういう所へやればいい。それを承知の……と言うより、そう言う所を買ってくれる。
真紀 ないでしょう、そんなの。生煮えの御飯を食べさせられてにやにやしてるなんて……若《も》しあったとしたら、少し気味が悪いわね。
収 そんなこと言ってて、じゃ一体どうするんです。放っといたらだんだん遅くなるばかりじゃありませんか。
真紀 さ、だからさ……。
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間。
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真紀 あれで、理化学研究所だけは、当人よくよく這入《はい》りたかったらしいのね。
収 そうでしょう、そりゃ。
真紀 何か言って? あなたに。
収 いいえ。
真紀 口を合わせてるようね。
収 ?
真紀 あなたが文学の話をするのかって訊いたら、やっぱり、いいえ、って。
収 だってほんとだもの。気になるんですか、それが。
真紀 ならないこともないの。あなたなんかそう思うでしょうね。這入りたければ、入れてやればいいって。
収 僕はやはり、これでいいのだと思うけど。
真紀 私達はどうしていいのかわからないの、本当のところはね。みんなあのひとが可愛くって仕方がないのよ。だから、あの子の好きにさせてやりたくなったり、そうかと思うと、それが却《かえ》って当人の為にならない気がしてみたり。少しは親の思惑《おもわく》でも押し切るほどだったらいいんだけど。
収 一々押し切るようだったら、一層困るんでしょう。
真紀 そうかもしれない。でも、あんなのも、今時ねえ。
収 どちらにしても不足は言うか。親って勝手なもんだな。しかし、そう言えばそうかもしれないな。
真紀 なに? 独合点《ひとりがてん》じゃわからない。
収 研究所へ入っておいた方が、おばさんの、ほら、世間知らずで押しとおれたかもしれないと思うんだけれど。
真紀 そこが難しいところね。女ってものは結局、あれだ、つまり……。
収 そう、それなら同じことです。これでいいんですよ。
真紀 どうするつもりだろう。あんなに人形ばかり慥えて。
収 含む所有るように見えるんですか。
真紀 まさか。でも何にも言わないから。
収 言うことが無いからでしょう。
真紀 簡単ね、あなたのは。
収 そんなに気になるかなあ。
真紀 私ね、私、なんだかあの子に大変悪いことをしたような気がするの。勿論《もちろん》気が廻るのよ、これは。(顔を外《そ》らす)自分でも可笑《おか》しいと思うんだが。
収 何とも思ってやしませんよ。そんなんじゃない、あれは。
真紀 あさ子の理解者ね、あなたは。
収 あのひとのすることなら総《すべ》て賛成しますよ。
真紀 大変ね。
収 少しファンの方かな。
真紀 お嫁さんに貰って呉れるかしら?
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間。
[#ここで字下げ終わり]
収 (静かに)おばさん。
真紀 え?
収 いや。
真紀 冗談々々。あのひとがもっと年下ならそう言うのよ。あなたはまだまだ勉強するんだものね。
収 (笑いながら)なかなか、うまいや。
真紀 私も、そろそろ決心しなくちゃいけないかねえ。
収 ――。(笑っている)
真紀 早すぎやしないわね。二十四。
収 そうですとも。どこかお話があるんですか。
真紀 ええ、まあ。
収 いいですね。医者、やはり。
真紀 ああ。
収 あのひとの知ってるひと?
真紀 いいえ。でも顔やなんかは知ってるの。お友達の兄さんで……お家もよく知ってるし……。
収 それならいい。
真紀 鈴木内科へ出てる方なのよ。
収 そうですか。それで……。
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あさ子。
[#ここで字下げ終わり]
あさ子 母さん、電話。
真紀 (立上り)そう、何方《どなた》?
あさ子 知らない。男の方よ、誰だか分かりますかって、笑ってるの、厭だわ。
真紀 そうかい。(去る)じゃ。
あさ子 今お店へ来た人ね、爪切りを呉れって言うのよ。こちらは薬局ですから爪切りはありませんて言ったら、そしたら剃刀《かみそり》の替刃って言うの、化粧品ならありますって言うとね、僕の奥さんは三十七になるが、今日迄一度も和製の化粧品を使ったことのないのが誇なんだって。此の間も独逸《ドイツ》の何とか言う会社へ直接注文して、二十何円もするクリームを取寄せたんだって。そしてね、僕は主戦論者だが、その第一の理由は、もし戦争が始ったら、うちの奥さんも、少しは国産愛用者になるだろうと思うからだって。店でみんな大笑いしてるのよ。
収 ――。
あさ子 (椅子を卓の方へ寄せ)此の間持って帰った人形、どうして。おばさん笑ってたでしょう?
収 ――。
あさ子 厭だわ、聴いてないのね。(眉を撫でる)
収 ――。
あさ子 どうかした?
収 (思い出したように)いいえ。
あさ子 そう。だったらいいけれど。
収 あなたは何時来ても人形を慥えてるね。
あさ子 そう言う時ばかり、やって来るのよ。
収 明日お嫁入りって言う日でも、そうしてるんだろうな。
あさ子 いやだお嫁入なんて。
収 どうするんだ? 出来上ったのは。
あさ子 売りに行くの。みんな同じことを言うのね。
収 おばさんもそう言った?
あさ子 たった今よ。
収 ふ。人間の考えてることなんて、大概同じようなものだな。
あさ子 あたしは違う。
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