て目附衆《めつけしゅう》へ運動もしたし、それから後も山科に閑居して、茶屋酒にうつつを脱かしていると見せながら、暮夜《ぼや》ひそかに大垣の城下に戸田侯(内匠頭の従弟《じゅうてい》戸田采女正氏定《とだうねめのしょううじさだ》)老職の門を叩いて、大学|擁立《ようりつ》のことを依嘱《いしょく》した事実もある。もっとも、そうした運動の奏効《そうこう》おぼつかないことは、彼といえどもよく承知していた。が、全然徒労に終るものとも思っていなかった。再興の望みが絶対になかったように思うのは、事後においてそれを見るからで、当時にあっては、四囲《しい》の情勢から見て、かならずしもその望みがなかったとは言われない。幕府がいったん取潰した家を再興した先例はいくらもある。ましてや、相手の吉良家に何のお咎めがなかった点から見ても、その渦中にあった浅野家の浪人どもには、今にも再興の恩命が下るように思われたかもしれない。
 とにかく、内蔵助からしてそういう気持であったために、正月の山科《やましな》会議では、持重派《じちょうは》が勝ちを制して、今年三月亡君の一周忌を待って事を挙げようというかねての誓約も当分見合せとなった
前へ 次へ
全127ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング