った言葉が彼の心に泛《うか》んできた。
「そうだ」と、彼はふたたび自分で自分に誓うように呟《つぶや》いた。「どんなことになろうとも、俺はこの口を開けてはならない。――責めらりょうが、殺さりょうが、たとい舌を咬《く》い切ってでも!」
こんな烈しい言葉を用いながらも、彼はそれによって、不思議に、何の衝撃をも、不安をも、恐怖をも感じなかった。この場合、彼には命を投げだすということがきわめて訳もないことのように思われたのである。
「なに、死ぬ気でかかったら、何ほどの事があろう? こちらの覚悟一つだ!」
彼は力足《ちからあし》を踏《ふ》み緊《し》めるようにして歩きだした。見ると、もう吉良家の裏門に近く来ている。かねて小豆屋善兵衛の探知によって、家老小林の宅が裏門に近い所にあるとは聞いていた。が、それでは都合が悪いと思ったか、わざと表門へ廻って、門番にかかった。
「お願いでございます、ちょっと小林様のお長屋へ通らせていただきます」
「小林様へ通るはいいが、いずれから参った?」と、暇潰《ひまつぶ》しに網すきをしていた門番が面倒臭そうに聞き返した。
「へえ、両国橋のお茶道珍斎からお状箱を持ってまい
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