助もいよいよ十月の七日には京師《けいし》を発足した。それに従う面々は、潮田又之丞(前に安兵衛とともに下って、ふたたび上方へ取って返したもの)、近松勘六、菅谷《すがのや》半之丞、早水《はやみ》藤左衛門、三村次郎左衛門、それに若党仲間どもを加えて、同勢すべて十人、「日野家用人垣見五郎兵衛」と大書した絵符を両掛長持に附《ふ》して、関所関所の眼を眩《くら》ましながら、五十三駅を押下った。そして、二十三日には鎌倉雪の下着、ここで江戸から迎いに出た吉田忠左衛門と出会って、打合せをした上、三日の後いっしょにそこを立った。そして、かねて準備しておかれた川崎在平間村の一|屋《おく》に入った。ここに十日間ばかり滞在して、江戸の情勢を窺《うかが》っていたが、差閊《さしつか》えなしと見て、十一月の五日にはとうとうお膝元へ乗りこんできた。そして、前月来伜主税が逗留している石町の旅人宿小山屋に、左内の伯父と称して宿泊することになった。江戸にあった同志は、それとばかりに、人目を忍んで、かわるがわる内蔵助の許《ところ》に伺候《しこう》した。いよいよ年来の宿望を達する日が近づいたのである。
 が、内蔵助の到着とともに、かねて連盟の副頭領とも恃《たの》まれていた千石取りの番頭奥野|将監《しょうげん》、同じく河村伝兵衛以下六十余人の徒輩《ともがら》が、いよいよ大石の東下《とうげ》と聞いて、卑怯《ひきょう》にも誓約に背《そむ》いて連盟を脱退したことが判明した。もっとも、その中には、前から態度の怪しかったものもあるにはあった。が、内蔵助の叔父小山源五右衛門、従弟《じゅうてい》進藤源四郎など、義理にも抜けられない者どもまで、口実《こうじつ》を設けて同行を肯《がえ》んじなかったと聞いては、先着の同志も惘《あき》れて物が言えなかった。中にも、血気の横川勘平のごときは、
「あいつらもともと汚い奴輩《やつばら》だ。この春討って捨てようと思ったのに、手延びにして残念だ!」と、歯噛みをして口惜しがった。
 が、神崎与五郎はそばからそれを宥《なだ》めるように、
「なに、今になって退《の》くような奴らは、皆大学様の御左右《ごさう》をうかがって、万一お家お取立てになった場合、真先にお見出しに預《あず》かろうという了簡《りょうけん》から、心にもない義盟に加わってきたのだ。そんな奴らが何人いたって、まさかの時のお役に立つものでない。仇討は吾々だけで十分遣《や》ってみせるよ」と言った。
 勘平もそれには異存がなかった。
 とにかく、一時百二十余名に上《のぼ》った義徒の連盟も、江戸へ集まった時には、こうして五十人余りに減ってしまった。が、それだけにまた後に残ったものの心はいっそう引締ってもきた。少なくとも、人数の減少によってぐらつくようには見えなかった。
 が、十一月の二十日になって、麹町《こうじまち》四丁目|千馬《ちば》三郎兵衛の借宅に、間喜兵衛、同じく重次郎、新六なぞといっしょに同宿していた中田理平次が、夜逃げ同様に出奔《しゅっぽん》したという知せが同志の間に伝わった。江戸へ下った者はまさかだいじょうぶだろうと思っていただけに、同志もこれには吐胸《とむね》を吐いた。現在同志と思っている者も宛にはならぬというような感情も湧いて、互に相手を疑うような気持にもなった。中にも、小平太は少なからぬ衝撃《しょうげき》を受けた。
「そうだ、同志も宛にはならぬ。だが、俺はどうだ、俺は宛になるか」
 そう思った時、彼はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として思わず身を竦《すく》めた。彼といえども、最初連盟に加わった時から、一死はもとより覚悟していた。仇家《きゅうか》に討入る以上、たといその場で討死しないまでも、公儀の大法に触れて、頭領始め一同の死は免《まぬか》れぬということも知らないではなかった。が、一方ではまた、仇討は仇討だ、君父の仇を討ったものが、たとい公儀の大法に背《そむ》けばとて、やみやみ刑死に処せられるはずはない。お上《かみ》でも忠孝の士を殺したら御政道は立つまいというような考えが、心の底にあって、それが存外深く根を張っていたらしい。
「だが、相手には何しろ上杉家という後楯《うしろだて》がある」と、小平太は今さらのように考えずにはいられなかった。「その上杉家はまた紀州家を仲にして将軍家とも御縁つづきになっているのだ。去年三月の片手落ちなお裁《さば》きから見ても、また今度の大学様の手重い御処分から見ても、吉良家に乱入したものをそのまま助けておかれるはずはない。必定《ひつじょう》一党の死は極《きわ》まった!」
 彼は頸《うなじ》の上に振上げられた白刃《はくじん》をまざまざと眼に見るような気がした。同じように感ずればこそ、理兵次も垢《はじ》を含んで遁亡《とんぼう》したものに相違ない。といって、自分は今さら命惜し
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