日、木村岡右衛門、大高源吾も九月中というように、同志の士は続々江戸へ下った。しかも大石自身は、後を清くして立つためには何かと用事もあって、そうきゅうに京師《けいし》を引払うわけにも行かない。そこで同志の心を安んずるために、まず伜《せがれ》の主税《ちから》に老巧間瀬久太夫を介添《かいぞ》えとして、大石瀬左衛門、茅野《かやの》和助、小野寺幸右衛門なぞとともに、自分に先立って下向させることにした。一行は九月十七日に京都を立って、同月二十五日には無事江府に下着《げちゃく》した。そして、石町《こくちょう》の旅人宿《りょじんやど》小山屋に、江州《ごうしゅう》の豪家垣見左内公儀に訴訟の筋あって出府したと称して逗留《とうりゅう》することになった。それと見た一党の士気は、こうなればもはや太夫《たゆう》の出府も間はあるまいというので、いよいよ振いたった。

     三

 これより先《さき》前原伊助、神崎与五郎《かんざきよごろう》の両人は、内蔵助の命を帯びて、すでにその年の四月中江戸に下っていた。これは吉良、上杉両家の近情《きんきょう》を偵察するためで、内蔵助もそのころから主家《しゅうか》の再興をしょせんおぼつかなしと見て、そろそろそれに処する道を講じておいたものらしい。で、前原は米屋五兵衛と変名《へんみょう》して、相生町三丁目に店借《たなが》りして、吉良邸の偵察に従事するし、神崎は美作屋《みまさかや》善兵衛と名告《なの》って、上杉の白金の別墅《べっしょ》にほど近い麻布谷町に一戸を構えた。これは上野介が浪士の復讐を恐れて、実子上杉|弾正大弼綱憲《だんじょうだいひつつなのり》の別邸に匿《かく》まわれているというような風評《うわさ》があったからにほかならない。が、それは風評《うわさ》だけに止まって、主として本所の邸に住んでいることが分ったので、おいおい同志が出府してくるころには、与五郎も谷町の店をしまって、前原の米屋の店へ同居することになった。そして、美作屋では、自分の生国《しょうごく》から取ったものだけに、気が指《さ》したのか、あらためて小豆屋《あずきや》善兵衛と名告って、扇子や鬢《びん》つけの荷を背負《しょ》いながら、日々吉良邸の内外を窺《うかが》った。が、同邸でも見慣れぬ商人と見れば、いっさい邸内へ入れぬようにして、用心堅固に構えている。その中を潜ってはいりこもうとするのだから、こちらの苦心はひととおりでなかった。が、そんなことにあぐむような彼らでもなかった。日夜その機会を覘《ねら》っていて、それ火事だ! とでも言えば、真先に屋根へ駆け上って、肝心の火事はよそに、向側の吉良邸の動静を目を皿のようにして窺《うかが》ったものだ。
 円山会議の後、真先に江戸へ下った堀部安兵衛は、浪人剣客長江長左衛門という触れ込みで、米屋の店にほど遠くない林町五丁目に借宅《しゃくたく》した。前哨《ぜんしょう》たる米屋の店と聯絡《れんらく》を取って、何かの便宜《べんぎ》を計るためであったことはいうまでもない。この借宅には、在府の士小山田庄左衛門を始めとして、七月中安兵衛より一足先に江戸へ下った横川勘平、一足後れてすぐその後から下ってきた、毛利小平太の三人が同居した。そして、横川は三島小一郎、小平太は水原武右衛門と変称した。なお前者は、身分こそ五両三人扶持の徒士《かち》にすぎなかったが、主家没落の際は、赤穂城から里余《りよ》の煙硝蔵に出張していて、籠城《ろうじょう》殉死《じゅんし》の列に漏《も》れたというので、それと聞くや、取る物も取りあえず城下へ駈けつけて、内蔵助の許《ところ》へ呶鳴《どな》りこんだほどの気鋭の士であったから、偵察の任務についても人一倍大胆に働いた。小平太も安兵衛だの勘平だのという気性の勝った連中といっしょにいては、一人ぐずぐずしてはいられない。それに同宿の士の中では比較的小身者であっただけに、横川とはことに仲よくしていたので、同じように仲間小者《ちゅうげんこもの》に身を扮《やつ》して、仇家の偵察にも従事すれば、江戸じゅうを走り廻って、諸所に散在している同士の間に聯絡《れんらく》をも取っていた。で、誰一人小平太の心底を疑うものもなければ、彼自身もそれを疑うような心は微塵《みじん》もなかった。
 ところで、十月の半《なかば》ごろまでには、後れて上方を発足した原総右衛門、小野寺十内、間喜兵衛なぞの領袖株《りょうしゅうかぶ》老人連も、岡島|八十《やそ》左|衛門《えもん》、貝賀弥左衛門なぞといっしょに、前後して、江戸へ着いた。最も後れた中村清右衛門、鈴田重八の両人も、十月の三十日には江戸へ入って、安兵衛の長江長左衛門の借宅に同宿することとなった。中村は小山田庄左衛門なぞと同じく百五十石取りの上士で、鈴田は三十石の扶持米を頂いていたものであった。
 頭領大石内蔵
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