の泣声にむっくり顔を上げた。そして、しばらく女の打顫う胴体を見入っていたが、何と思ったか、
「おしお、さらばじゃ!」と言ったまま、すっくと立ち上った。
おしおも吃驚《びっくり》して顔を上げた。
「血相変えて、今ごろどこへ行きなさんす?」
「どこへという宛もない」と、小平太は立ったまましおしおとして言った。「わしはただ、よそながらでもお前の顔が見たさに、恥を忍んでここまで来たばかりだ。わしはもうお前の良人と呼ばれる値打はない。お前もわしのようなものと縁を結んだのが因果《いんが》じゃと諦《あきら》めてくれい。こうしてお前の顔を見たのをせめてもの慰めに、わしはただわしの行く所へ行くつもりだ!」
「まあまあ待ってくだされ」と、おしおは立って小平太の袖《そで》に取縋《とりすが》った。「お前がそのように言わんすのももっともじゃ。もっともじゃが、わたしはわたしでまだ言うことがある。まあまあ下に坐《い》てくださんせいなあ」
言われるままに小平太はふたたびなよなよと下《しも》に坐った。おしおはその膝に取縋って、涙を持った眼に下からじっと男の顔を見上げながら、
「今お前は俺のようなものと縁を結んだのが因果じゃと言わんしたが、ほんに思えば、因果同志の寄合でござんすぞえ」と、しんみりと言いだした。「どんな男でも良人に持てば、わたしはお前の女房じゃ。お前が卑怯なら、わたしも卑怯、お前が臆病者なら、わたしも臆病者でござんす。女一人で身は立てられぬ。たとい世間で笑われようが、どうしょうが、わたしはどこまでもお前に随《つ》いて行く……行きますわいなあ」
二人はいつかいっしょに固く手を取合っていた。
「わたしはそういう気じゃほどに、かならず短気な心を出したり、悒々《くよくよ》してわずらわぬようにしてくださんせ。なに、お江戸ばかりに日は照りませぬ。もし世間の笑いものになって、ここで生きて行かれぬというなら、唐《から》天竺《てんじく》の果《はて》までも、いっしょに行く気でおりますわいな」
「よう言うてくれた、よう言うてくれた!」
小平太は握《にぎ》った女の手の甲の上に、はらはらと涙を落した。
「それでもまだ笑う者があったら、是非《ぜひ》がない、二人でいっしょに笑われましょう。どこまでも一人の男を守るのが女の道でござんすぞえ」
× × × ×
二人はなお夜を籠《こ》めて語り明した。が、その夜のまだ明けきらぬうちに、二人手に手を取って、日の光を恐れるもののように、いずくともなく姿を晦《くら》ましてしまった。
底本:「日本文学全集18 鈴木三重吉・森田草平集」集英社
1969(昭和44)年9月12日発行
入力:土屋隆
校正:浅原庸子
2006年10月16日作成
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