しみを嘗《な》めてきた。死に到る道程の全部を歩いてきた。全部を経験してきた。それは同志の中の何人《なんびと》も知らないような焦熱地獄《しょうねつじごく》の苦しみであった。おお、俺はそれだけでも許さるべきではないか。他人は何とも言わば言え、俺は俺自身に対して言訳が立つのではあるまいか」
こう考えてきた時、彼にはそれが動かすべからざる真理のような気がして、やや落着いてきた。で、雪の積った街路の上をじっと見詰めていたが、何と思ったか、またふらふらと立って歩きだした。
「考えてみれば」と、彼はまた歩きながら呟《つぶや》いた。「横川も言ったように、頭領大石が討入の日をこんなに延び延びにされたのもよくない。俺が死の苦しみを日々に嘗《な》めてきたのも、そのためだ。最後にこんなことになってしまったのも、そのためだと言わば言われないこともない! もし仇討《あだうち》がこの春決行されたら、百二十余名の同志があったはずだ。七十名に余る落伍者《らくごしゃ》の中には、俺と同じように苦しんだものもあったに相違ない。それをいちがいに不忠喚《ふちゅうよば》わりするのは当を得ない」
彼は在来の落伍者のためにも弁ぜずにはいられなかった。が、その下から、在来の落伍者と自分とを同じように見るということが、何となく彼の反感を唆《そそ》った。
「だが」と、彼はまたすぐに考えなおさずにはいられなかった、「仇討の連盟が百二十余名に達した時、ただちにそれを決行したら、なるほど百二十余名の者が一列に死についたかもしれない。百二十余名は立派だが、その中にはまだ本当に死の覚悟のできていないものもあったに相違ない。そういう生半可《なまはんか》のものを引連れて、吉良邸へ乗りこむということは仇討の美名の下《もと》に、一種の悪事を行うようなものではないか。死にたくないものを死なせる――というよりも、仇討に値いしないものを引率して仇討をするということが、悪事でなくて何であろう! よし吉良邸へ乗りこむことはできても、それでは御主君冷光院殿の前へは出られまい。そんな者の来ることを御主君は喜ばれないに相違ない。頭領はそこを考えていられた。いや、大石殿がそこまで意識していられたかどうかは分らないが、故意《こい》にしても偶然にしても、とにかく仇討を延び延びにすることによって、そういう生半可なものをすぐり落された、籾《もみ》と糠《ぬか》とを選《え》り分けられた。つまり俺もその試練に堪えないで篩《ふる》い落されてしまったのだ。俺は糠であった、これまでの落伍者と同じように糠にすぎなかったのだ!」
彼は押潰《おしつぶ》されたように、へたへたと雪の中に倒れてしまった。
「そうだ、俺は糠だ、糠にすぎない! 今夜討入った同志が真実《ほんとう》の籾であったのだ。あの連中だとて、俺のような苦しみを嘗《な》めなかったとは、どうして言われよう? 彼らはよくその試練に堪えて、自分が籾であることを立証したばかりだ。俺は生れながらに実《みの》らない糠であった。そして、永遠に救われない地獄《じごく》の鬼となってしまった」
彼は自分で自分の頭を打って、雪の中を転げ廻った。そして、「糠だ、糠だ!」と叫びながら、身体が痙攣《ひきつ》るようにのた[#「のた」に傍点]打ち廻った。
「そうだ」と、そのうちにふと頭を擡《もた》げた。「そうだ、まだ晩《おそ》くはない。これからすぐに駈けつけよう! 吉良邸へ駈けつけて、まだ一党が引上げないうちであったら、同士に詫びて、せめて公儀へ召しあげられる囚人《めしゅうど》の中へでも入れてもらおう!」
そう決心するとともに、彼は立ち上ってよろよろと駈けだした。が、一丁ばかり駈けだした時、またよろよろと雪の中に倒れてしまった。そして、もう二度とは立ち上らなかった。
十三
明くる日は雪晴れのうらうらした日和《ひより》であった。その日一日じゅう、小平太はどこをどう歩いていたのか、人も知らず、おそらく自分でも分らなかったに相違ない。とにかく、江戸の市中を、喰うものも喰わず、喪家《そうか》の狗《いぬ》のように、雪溶けの泥濘《でいねい》を蹴たててうろつき廻っていた。そして、その暮方に、憔悴《しょうすい》しきった顔をして、ぼんやり両国の橋の袂《たもと》へ出てきた。
見ると、橋の袂の広場に人簇《ひとだか》りがしている。怪しげな瓦版《かわらばん》売りが真中に立って、何やら大声に呶鳴《どな》っているのだ。――
「さあさあ、これは開闢《かいびゃく》以来の大仇討、昨夜本所松坂町吉良上野介様の邸《やしき》へ討入った浅野浪士の一党四十七人、主《しゅう》の仇《あだ》の首級《しるし》を揚げて、今朝《こんちょう》高輪の泉岳寺へ引上げたばかり、大評判の大仇討! 忠義の侍四十七人の名前から年齢《とし》まで、すっかり分って
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