小平太はいったいどこへ行くのだ? 逢われない逢われないと思いながら、彼の足はやっぱり柳島の方角へ向っていた。あれだけ近寄るのを恐れていた両国の橋を渡ったのも、考えてみれば、やっぱりおしおに逢いたさの一念からであった。
 彼はいつの間にか妙見堂の裏手まで来ていた。雪明りに透《すか》しておしおの家が眼にとまった時、彼はぎくりとしたように足を駐《と》めた。そして、ためらうように窓の明りを眺《なが》めていたが、きゅうに足を旋《めぐ》らして二歩三歩帰りかけた。が、すぐにまた踏みとどまって、
「そうだ、これを最後に逢いに来たのだ。せめてよそながらでも顔を見て行こう」と呟《つぶや》いた、そして、考えなおしたように、また女の家に近づいて行った。が、すぐに戸口をはいろうとはしないで、積った雪を踏んで裏手の方へ廻ってみた。おしおの家の裏手には長屋じゅうで使うようになっている釣瓶井戸《つるべいど》があった。小平太はそのそばに立って、月影を避けるようにしながら、じっと家の中に耳をすました。が、家の中はしんとして物音一つしない。そのうちに、窓の障子《しょうじ》に女の影が射して、それが消えたかと思うと、「ちーん!」と鈴《りん》の音が聞えてきた。
「そうだ、今日はおしおの母の三七日《みなぬか》だ! 仏壇にお灯《ひ》でもあげているのだな」
 が、おしおは下に坐ったまま、なかなか立ち上らない。小平太は窓のそばへ寄って覗《のぞ》いてみようかとも思ったが、長屋の者が水汲《みずく》みにでも出て、見つけられたらというような気がして、じっと我慢して立っていた。が、たまらなくなって、一歩ずつだんだん裏の戸口に近づいた。そして、そっと戸の隙間から覗《のぞ》いてみようとした時、不意におしおの立ち上る気はいがした。どうもこちらへ近づいてくるらしい。小平太は思わず一歩後へ退ったが、もう晩《おそ》かった。女は何の気もなくがらりと裏の戸を開けた。そして、思わぬ人の影に、「あっ!」と吃驚《びっくり》したような声を上げた。それでも気丈な女だけに、手燭《てしょく》を上げて、おずおず相手の顔を見遣りながら、
「まあ、旦那様でしたか。こんな所に立っていらして、本当に吃驚《びっくり》しました!」と言いだした「いったいどうなすったのでございます?」
 小平太は棒立ちになったまま、返辞もしなければ、また動こうともしなかった。
「今ごろお出
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