、ただの三文! ええ、大評判の大仇討、もうこれだけしかない、売れきれぬうちにお早く、お早く!」
「吉良……浅野浪士!……」という声が耳に入った時、小平太は思わず足を留めた。そして、群集の頭越しに、喚売《よびうり》の男の顔をじっと穴の開くほど見詰めていたが、何と思ったか人込みを分けて、つかつかと前へ進み出で、
「おい呼売、一枚くれ!」と喚《よ》んだ。
「へえありがとうさま、一枚! もう後は五六枚しかありませんよ」
彼は手に掴《つか》んだ小銭を渡して、それを受取るなり、群集の眼を恐れるように、こそこそと薄暗い横丁へはいって行った。ひろげてみると、なるほど大石内蔵助をはじめ寺坂吉右衛門に到るまで――中にはもちろん間違ったのもあるが――同志の名をずらりと並べて、この方々は、去年三月殿中において高家の筆頭吉良上野介に斫《き》りつけ、即日切腹、お家断絶となった主君浅野内匠頭の泉下の妄執《もうしゅう》を晴さんために、昨夜吉良邸に乗こんで、主君の仇上野介の首級《しるし》を揚げ、今朝泉岳寺へ引取って、公儀の大命を待っている。お上ではただ今老中方御評議の真最中だと、事の概略《あらまし》が載《の》せてある。
「さては首尾よく仇を討たれたか……そして、予定のごとく泉岳寺へ……」
彼はその華々《はなばな》しい進退行蔵《しんたいこうぞう》を目の当り見るような気がした。堀部安兵衛|武庸《たけつね》の名も出ている、横川勘平宗房の名も出ている。が、毛利小平太の名は? もちろん、そこに出ていようはずはない。彼は義士たちの明るい功名を想いやるにつけて、いよいよ自分の眼の前が暗くなるような気がした。
「どうしよう、俺はどうしよう?」
こう呟きながら、彼は手を負った獣のように走りだした。が、どこへ行く宛もない。両国の橋を渡れば、もうじきそこが松坂町の吉良邸である。彼はそこへ近づくことを一番恐れているくせに、やっぱりここへ来てしまった。が、今ごろそこへ行って何になろう?
「ああ、俺はもうどこへも行く所がない!」
もちろん、彼にはまだおしおの家があった。が、こうなった上は、もうおしおにも逢われる身ではない。今ごろ顔を見せたら、あの女がどんなに落胆《がっかり》して、どんなに泣くことであろう! 事によったら、自分を軽蔑するあまり、物をも言わずに突き出してしまうかもしれない。
で、女にも逢われないとすれば、
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