そうな気がしたので、とある居酒屋が見つかったのを幸い、そっと暖簾《のれん》をくぐった。あり合せの鍋物を誂《あつら》えて、手酌《てじゃく》でちびりちびり飲みだしたが、いつもの小量にも似ず、いくら飲んでも思うように酔わなかった。それでも彼は、自分で自分を忘れようとでもしているように、後から後からと銚子《ちょうし》を重ねた。
一刻《いっとき》ばかりして、彼がその居酒屋を出た時は、もう子《ね》の刻に近かった。が、彼はすぐに両国の方へ引返そうとはしないで、何と思ったか、元来た坂本の道を真直に千住の大橋に向って歩きだした。その時はもう雪も止んで、十四日の月が皎々《こうこう》として中天《ちゅうてん》に懸っていた。通りの町家は皆|寝鎮《ねしず》まっていた。前を見ても後を見ても、人通りはない。自分では酔わぬつもりでも、脚はかなりふらふらしていた。彼はその千鳥足《ちどりあし》を踏み締めながら、狂人《きちがい》のように、どんどん雪を蹴《け》って駈《か》けだした。
大橋の上まで来た時、小平太ははっとしたように吾に返った。
「いったい、俺はどこまで行く気だろう? それよりも、今はもう何剋《なんどき》だろう?」
彼は橋の上に立ち停ったまま、頭の上の北斗星を見遣《みや》った。
「そうだ、丑《うし》の上刻! それまでに宿へ帰らなければ、もう間に合わない!」
彼は背後《うしろ》から鉞《まさかり》で殴打《どや》されたように躍《おど》り上った。
「もう何剋だか知らないが、千住の大橋から両国までは一里あまり、丑の刻までには行き着かれそうにもない。俺はとうとう時刻を逸した。俺は同盟から外《はず》れてしまった。俺は人外《じんがい》に堕《お》ちた、蛆虫《うじむし》同様になってしまった。もう明日から人にも顔は合わされない。同志は今ごろ俺を何と言ってるだろう、何と言って罵《ののし》っているだろう? 安兵衛は? 勘平は?」
彼はよろよろと橋の欄干《てすり》に凭《もた》れかかって、両手に頭髪《かみ》の毛を引掴《ひっつか》んだまま、「そうだ、俺は時刻に後れると知りながら、わざと後れるようにしかけたのだ、わざとこんな所へ来てしまったのだ。何という俺は卑怯者だ、臆病者だ! 生れついての臆病が最後にとうとう俺に打克《うちか》ったのだ!」と呟《つぶや》いた。そして、そう呟きながら、だんだん雪の中に顔を埋《うず》めてしま
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